【良作】ダーティハリー_素晴らしきアンチヒーロー(ネタバレあり・感想・解説)

クライムアクション

(1971年 アメリカ)
刑事アクションの金字塔。その名声にふさわしいほどのキャラ立ちした主人公と、むかつく悪役。展開はシンプルなのですが、法の正義とは何ぞやという社会派的な問いかけも含まれており、実に充実した娯楽作として仕上がっています。

スタッフ・キャスト

監督はドン・シーゲル

1912年生まれ。1934年に叔父の伝手によりワーナーブラザーズで働くようになり、編集助手や助監督を務めるようになったのですが、1944年にワーナーと契約で揉めて干されるなど苦労をしました。『The Verdict』(1946年)で長編監督デビューをしたものの、1948年に業績が落ち始めたワーナーのリストラに遭って9か月の無職暮らし。その後は様々な映画会社を渡り歩き、多くのB級映画を手がけました。

1954年に名プロデューサー・ウォルター・ウェンジャーの下で『第十一号監房の暴動』を監督し、同作の監督助手として後の大監督サム・ペキンパーと出会いました。以降、ペキンパーは4本の映画でシーゲルの監督助手を務めました。また、1950年代から60年代にかけては生活のためにテレビ映画も手掛けていました。

1968年に、クリント・イーストウッド主演は決定していたものの、監督選びで難航していた『マンハッタン無宿』(1968年)の監督に就任し、両者は意気投合。翌年の『真昼の死闘』(1969年)、サスペンス映画『白い肌の異常な夜』(1971年)、本作『ダーティハリー』(1971年)と短期間で連続してコンビでの作品を発表しました。

この勢いで1970年代には男性映画の雄となり、『突破口!』(1973年)、『ドラブル』(1974年)、『ラスト・シューティスト』(1976年)、『テレフォン』(1977年)、そしてイーストウッドとの最後のコラボ作となる『アルカトラズからの脱出』(1979年)を手がけました。

1980年代に入ると、一転してプロデューサーとの軋轢によって思うように映画を撮れなくなり、さらにはその苦境を支えてくれていた弟子のサム・ペキンパーが心不全により死去したことから映画界から距離を置くようになり、1991年に癌により死去しました。

シーゲルの強みはB級映画界で培った低予算・早撮りの技術であり、入念な打合せのもとで作品イメージを固め、現場では無駄なショットを一切撮らないという演出スタイルは、クリント・イーストウッドに引き継がれています。

主演はクリント・イーストウッド

1930年サンフランシスコ生まれ。1951年より2年間の兵役を務めました。『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(1988年)、『グラン・トリノ』(2008年)、『運び屋』(2018年)などで朝鮮戦争に従軍した老人役を演じるのは彼自身のこの履歴によるものですが、彼の勤務地はカリフォルニア州のフォート・オード基地であり、戦場に出たことはありません。

従軍中に映画関係者とのコネができ、特にアーサー・ルビンという映画監督が長身イケメンのイーストウッドを買っていたことから、1954年にユニバーサルとの契約を結びました。ただしオーディションを受けても落ちまくり、来る仕事はアーサー・ルビン関係のものばかりだったことから、1955年にはユニバーサルを解雇されました。

1958年からスタートしたテレビドラマ『ローハイド』の主演で人気を博し、1964年には当時ほぼ無名だったイタリアの映画監督セルジオ・レオーネからの依頼を受け出演した『荒野の用心棒』が大ヒット。続く『夕陽のガンマン』(1965年)、『続・夕陽のガンマン』(1966年)も世界的にヒットし、イーストウッドは俳優としての地位と豊富な資金を得ました。

そこで設立したのが自身の製作会社・マルパソ・プロダクションであり、2021年現在に至るまでイーストウッドはこのプロダクションを活動拠点としています。

ストーカーという言葉もなかった時代に作られた先進的なストーカー映画『恐怖のメロディ』(1971年)より監督業にも進出。ただし大作や賞レースに絡むような目立った作品を手掛けることはなく、どちらかと言えばB級と言えるレベルの作品群でマイペースに実績を積み上げていきました。

流れが変わったのが『許されざる者』(1992年)であり、同作でアカデミー作品賞と監督賞を受賞し、以降は文芸性の高い映画も手掛けるようになりました。

『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)で再びアカデミー作品賞と監督賞を受賞。同作では74歳という史上最年長受賞の記録も出しました。その他、『ミスティック・リバー』(2003年)、『硫黄島からの手紙』(2006年)、『アメリカン・スナイパー』(2014年)の3作品で作品賞・監督賞にノミネートされています。

感想

ハリー・キャラハンがかっこいい

主人公ハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)はサンフランシスコ市警の刑事。市長に対して直に事件の進捗報告をしに行くくらいなので市警内では相当な地位にあると思われるものの、あだ名は「ダーティハリー」(汚れ仕事のハリー)。

なぜそう呼ばれているのかと言うと、異常なまでに仕事熱心で他の刑事が嫌がる汚れ仕事でも厭わず引き受けることと、悪を倒すためなら批判を恐れず荒っぽい手段にも出られるという思い切りの良さにあります。

ではなぜそこまで仕事熱心なのかと言うと、私生活がないためです。劇中で「家族は?」と聞かれても「妻は交通事故で死んだ」とそっけなく答えるのみ。そこに妻を殺した者への怒りも、愛する者を失くしたことへの無念もなく、ただの情報として「妻が死んだ」と言うだけであり、この人にとって結婚とは大した意味を持たないものだったのだろうと推測されます。

犯罪者をぶっ殺すことが仕事であり、趣味であり、生きがいであり、すべてのむしゃくしゃを犯罪者にぶつけている。結果的にそれが社会の役に立っており、収入にも結び付いている。ハリー・キャラハンとはそんなアンチヒーローなのです。

アンチヒーローは自分に100%の正義はないことと、内に秘めたる暴力衝動を発散するために悪党を追っていることを自覚しており、自分にも社会にも正直なので好感が持てます。

序盤にて銀行強盗犯を追い詰めた際に出たセリフ「Go ahead, Make my day(やれよ、楽しませてくれ)」は、表面上は牽制のようでいて実は本気だったのでしょう。

スコルピオのむかつき加減が凄い

そんなハリーと対峙するのが連続殺人犯スコルピオ(アンディ・ロビンソン)。

1968年から1974年にかけてサンフランシスコで連続殺人事件を起こしたゾディアック・キラーがモデルになったとされているのですが、ライフルで無差別殺人を行う様からは1966年のテキサスタワー乱射事件も想起させられます。

スコルピオには動機らしい動機がなく、ただただ猟奇殺人を楽しんでおり、劇場型犯罪を起こしては警察を攪乱して喜んでいるという中身のなさには恐ろしくなります。

しかも犯罪者としての美学らしきものもなく、面が割れてハリーに追い込まれると「頼む、助けてくれ!何でもしゃべるから!」と急に弱腰になり命乞いを始めるという小物ぶりも披露。

『ダークナイト』(2008年)のジョーカー(ヒース・レジャー)は本作のスコルピオをモデルにしたと言われていますが、世間の良識をあざ笑いカオスを生み出すという目的を持ち、どれだけバットマンに殴られてもヘラヘラ笑い続けるというガッツを見せたジョーカーと比較すると、スコルピオはその小物ぶりが随分とムカついてきます。

演じるアンディ・ロビンソンは私生活では銃が大嫌いなのですが、本作のスコルピオが異常にハマり役だったうえに、映画初出演で世に他の演技を見せたことがなかったことから、本当にこういう奴だと思われてしまい脅迫状やいたずら電話を多数受けるという酷い目に遭いました。

それほどの迫力が本作のスコルピオにはあったということです。

なお、本作の脚本には一時期テレンス・マリックが関わっており、マリックはスコルピオを異常者ではなく歪んだ社会正義に燃える処刑人に変更しました。本作ではボツにされたものの、プロデューサーからのウケは良かったことから『ダーティハリー2』(1973)でその設定が再利用されました。

終盤は社会派路線に流れ込む

いろいろありつつも、ついにハリーはスコルピオの身元を掴み、その逮捕に成功するのですが、通常の映画であればクライマックスに来るであろうその展開が、本作では中盤地点に配置されています。残り時間が30分以上もあるのです。

犯人を逮捕してめでたしめでたしとはいかず、被疑者の権利の読み上げが不十分だったのでスコルピオを釈放せざるを得ないという不条理な展開を迎えます。

検事によると、ハリーはスコルピオに対して黙秘権を伝えていなかったので罪の自白は無効だし、捜査令状なしでの家宅捜索で得られた証拠も裁判では使えない。目の前にはスコルピオが犯人だと決定づける証拠の数々があるのに、そのすべてが法的に意味をなさないという滅茶苦茶なことになっていきます。

もちろんハリーはうっかり権利の読み上げを忘れたわけではありません。誘拐された少女の生死がかかっているという逼迫した状況があり、一刻も早くスコルピオの口を割らねばならないという合理的な理由があったのですが、それでも法は形式的な被疑者の権利を守り続けるのです。

権利は結構だが、本当に守らなきゃいけないものを見失ってはいないだろうか。本作は法律に対するそんな問いかけをします。

法の番人として仕事をしてきた警察官が、法によりその職務執行を妨げられる。そこからハリーは刑事という立場を捨て、スコルピオとの私闘へと赴いていきます。

ここから映画は西部劇の様相を呈し、リボルバーを握ったハリーがスコルピオと対決。しかしハリーの為した正義は称賛されることはなく、警察バッジを捨てて終了というビターな結末を迎えます。

いかにも70年代的な結末にもしびれました。