【凡作】マウス・オブ・マッドネス_オチは一体何だったのか(ネタバレあり・感想・解説)

サスペンス・ホラー
サスペンス・ホラー

(1994年 アメリカ)
全編がメタ構造のミステリーだが、現実と幻覚の定義があいまいでサプライズがサプライズたりえておらず、個人的にはイマイチに感じた。世界的には評価されている作品なので、相性の問題なのだと思うが。

作品解説

黙示録三部作の一作

本作の監督はジョン・カーペンター(以下、JC)で、彼は『遊星からの物体X』(1982年)『パラダイム』(1987年)と並ぶ「黙示録三部作」の一作としてこれを位置付けている。

オリジナル脚本を執筆したのは『エルム街の悪夢 ザ・ファイナルナイトメア』(1991年)のマイケル・デ・ルカで、同作も現実と虚構が入れ子構造になった作品であり、これがデ・ルカの作家性と言えるのだろう。

本作の原題”In the Mouth of Madness”は、HPラブクラフト著『狂気山脈』(1931年)”At the Mountains of Madness”に由来するらしい。

また登場人物サター・ケイン(ユルゲン・プロホノフ)は、ジョン・カーペンターの友人でもあるホラー作家スティーヴン・キングをモデルにしていると言われている。

1980年代終わり頃に脚本を書き終えたデ・ルカはJCの元に企画を持ち込んだのだが、この時点で監督に就任したのは『ニューヨーク1997』(1981年)の視覚効果マンであり、『ヘルレイザー2』(1988年)の監督であるトム・ランデルだった。

次に『ペット・セメタリー』(1989年)のメアリー・ランバートが監督に就任したのだが、こちらもうまくいかず、1992年12月に第一志望のJCが監督契約にサインした。

JCを企画に引き戻せたのはデ・ルカの政治力によると思われる。

マイケル・デ・ルカは1992年に弱冠27歳でニュー・ライン・シネマの社長に就任し、プロダクションをコントロールできる立場にいたのである。

後にデ・ルカは『セブン』(1995年)、『ブレイド』(1998年)、『オースティン・パワーズ』(1997年)、『ブギーナイツ』(1997年)などのヒット作を連発し、ホラー専門スタジオだったニュー・ライン・シネマを、準大手の地位にまで引き上げることに貢献する。

興行的には失敗した

そんなマイケル・デ・ルカ肝いりの作品だったが、全米初登場4位と低迷し、全米トータルグロスは890万ドルにとどまった。

製作費は800万ドルと控えめだったので、めちゃくちゃに痛い失敗という訳でもなかったが。

批評家からのレビューは割れた。アメリカの批評家からは「JCファンは十分に喜ぶ内容だが、決して良い出来とは言えない」とのレビューが多数を占めた一方で、欧州では評価が高く、フランスの雑誌カイエ・デュ・シネマでは1995年のトップ10に入った。

感想

不完全なメタ構造

10代の頃に一度だけ見たのだが、その時点では面白く感じなかったので、以降は見返してこなかった作品。

最近、同じくJC監督の『光る眼』(1995年)を午後のロードショーで再見し、こちらも初見時の印象が良くなかったにも関わらず二度目だとかなり楽しめたので、本作も再チャレンジしてみることにした。

とはいえ待っていても地上波で放送されるような内容でもないので、Blu-rayを購入しての鑑賞となったが。

で、感想はというと、残念ながらこちらの感想は昔のままだった。

地上波で見た『光る眼』の印象が良くなって、Blu-rayを買ってまで見た本作の印象が悪いままというのは何とも残念だが、人生とはそういうものだ。上を向いて歩こう。

保険調査員トレント(サム・ニール)が、行方不明になったベストセラー作家サター・ケイン(ユルゲン・プロホノフ)の捜索を依頼されるんだが、辿り着いた地図にない町で想像を絶する体験をするというのがざっくりとしたあらすじ。

トレントは徹底した現実主義者なので、何が起こっても超常現象であるという可能性を切り捨てようとする。

そのうち「話題作りのために出版社が俺を嵌めてるんだろ」と言い出すのだが、著名人でもない保険調査員一人を騙すにしては規模が大きすぎて、さすがにそんなわけないだろ、もっとマシな仮説を立てろよと思ってしまった。

これでは現実主義者というよりも陰謀論者である。

そんなわけでトレントの主観がかなりいい加減なので、物語に感情移入できなかった。

またメタ構造をとっている話の割には、現実、幻想、作品世界の区切りが曖昧過ぎて、途中からついていけなくなるという問題もある。

認知の揺らぎというものをうまく表現できた作品として『ジェイコブス・ラダー』(1990年)があるが、あの映画はサプライズの前段階として現実と幻覚の定義をしっかりとできていたので、その認識が崩れる瞬間の驚きを観客も共有できていた。

一方本作はというと、現実とも幻覚ともつかない曖昧な世界がふわふわと漂っているような状態なので、何が起こっても驚きはない。

またトレントが知覚した世界の話なのに、一時的に視点がトレントから完全に離れてアシスタントの単独行動を追いかけ始めるのはどうかと思った。

主観の構築が随分とユルイので、全体的に納得できない話になっている。

結末の認識は合ってます? ※ネタバレあり

命からがら街を抜け出したトレントは、「これはヤバい書籍だ」ということでケインから預けられた小説『マウス・オブ・マッドネス』の原稿を処分する。

そして出版社に事の次第を報告するのだが、編集長からは「君からはとっくに原稿を受領済で、今ではベストセラーになってる。ハリウッドでの映画化も決まったよ」と言われる。

ここでトレントは自分がケインに踊らされただけだと気付き、ケインが言っていた通り『マウス・オブ・マッドネス』を読んだ人々が狂気に憑りつかれ、世界を破壊し始める光景を目の当たりにする。

ああ俺はやっちゃったのねと落ち込むケインだが、映画『マウス・オブ・マッドネス』の上映館に行くと、本作冒頭での自分の姿が映っているではないか。

これがどういうことかというと、トレント自身が『マウス・オブ・マッドネス』という物語の登場人物であり、本作全体が劇中劇という入れ子構造になっているのだろう。

と、個人的には解釈したのだが、web上の考察サイトを読んでも私のような解釈をしている人がいなかったので、かなり不安になった。

最後は本当に世界が崩壊した説、トレントが見ている映画は妄想説、トレントは小説の世界に取り込まれた説などいろいろあって、製作から30年近くたつのに定説らしきものがないようだ。

結局あれはどういうことだったんだろう。

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