(1997年 アメリカ)
ウェズリー・スナイプスがヴェネツィア国際映画祭で主演男優賞を受賞したという、にわかには信じがたい作品。しかもアクションではなく不倫ドラマで。着地点は想像の斜め上をいっており、かなりの珍作と言えるが、それゆえに見る価値はあると思う。
ウェズリー・スナイプスがヴェネツィアで受賞
大ヒット中の『デッドプール&ウルヴァリン』(2024年)では、ウェズリー・スナイプス扮するブレイドの復活に世界中の中年が熱狂した。
ウェズリー・スナイプスと言えば、エクスペンダブルズの一人、Vシネにめっちゃ出てた人、でも脱税で捕まったよねという印象が強い。
コアなアクション映画ファンですら、「『ブレイド』は良かったなぁ。それ以外の出演作は・・・」という微妙な評価を下しがちだが、元はハリウッドのメインストリームで、頂点に手がかかる寸前のところにまでいった紛れもないスターだった。
1962年フロリダ州出身。幼少期より習った空手では5段の腕前を持ち、また名門ニューヨーク州立大学で演劇を専攻したという文武両道である。
90年代のウェズは、NYでスパイク・リー作品に出演しつつ、LAではショーン・コネリー、ロバート・デ・ニーロ、シルベスター・スタローンらの相手役を務め、単独主演作『パッセンジャー57』(1992年)では全米興行成績No.1を獲るなど、非常に幅の広い活躍をしていた。
確かに『ブレイド』(1998年)は彼のキャリアのハイライトではあったが、それだけではなかったのだ。
そしてコアなアクション映画ファンすら忘れがちになるのだが、非アクションのドラマで演技賞を受賞した実績も持っている。
それこそが本作『ワン・ナイト・スタンド』(1997年)である。
本作でウェズは1年前に犯した不貞行為に悩み苦しむ男の役を演じ、ヴェネツィア映画祭で主演男優賞を受賞した。後のアイアンマンことロバート・ダウニー・Jr.を脇役にして。
若い人は驚くだろうが、ウェズリー・スナイプスが主演で、ロバート・ダウニー・Jr.が脇役を演じる時代が、かつて確かにあったのだ。
ニュー・ライン・シネマが大枚はたいて作った映画
本作のオリジナル脚本を書いたのは『氷の微笑』(1992年)を大ヒットさせたジョー・エスターハス。
現在から振り返れば『氷~』の大ヒットはポール・バーホーベン監督の手柄と見るのが妥当なのだが、当時は脚本を書いたジョー・エスターハスにも注目が集まり、彼が書くエロ脚本にはことごとく高値がついた(『硝子の塔』『ジェイド』『ショーガール』)。
そんなウハウハ状態の中、本作に至ってはたった4ページのアウトラインが250万ドルで売れた。その後、撮影が開始された暁には150万ドルが追加で支払われるというオプション付きで。アイデアだけにこれだけの金額が支払われたことはかつてなかった。
こんな法外な金額を支払ったのはニュー・ライン・シネマ。
のちにはウェズの『ブレイド』(1998年)やピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作を製作して准メジャースタジオの地位にまで登り詰めるのだが、元はホラーやカルト映画を得意とする三流スタジオだった。
そんなニュー・ライン・シネマの成長途上期にあったのが90年代であり、1992年に弱冠27歳で製作責任者の座に就いたマイケル・デ・ルカの指揮の元、鼻息の荒いラインナップを続々と発表していた。
彼らは『マスク』(1994年)、『セブン』(1996年)、『オースティン・パワーズ』(1997年)といった大ヒット作を生み出す一方、有名監督や大スターに搾取されただけの作品も多く、レニー・ハーリン監督の『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)やウォルター・ヒル監督の『ラストマン・スタンディング』(1996年)では大損害を出した。
本作は、どちらかと言えば後者寄りの作品である。
都会を舞台にした大人のラブストーリーに2600万ドルはかけすぎだった。
高くついたのは脚本料だけではない。
当初、監督に内定していたのは『ナインハーフ』(1986年)、『危険な情事』(1987年)などエロティックな題材に慣れていたエイドリアン・ラインで、手付だけで25万ドルが支払われた。
本格的な撮影が始まれば700万ドルというこれまた法外な監督料が支払われる契約になっていたが、1995年にエスターハスが完成させた脚本が、前半65ページにわたって延々と性行為が続くという常軌を逸した内容だったことから、エイドリアン・ラインは降板した。
降板したラインは、マリオ・カサールが企画していたリメイク版『ロリータ』(1997年)の監督に就任したが、あれはあれで一部キャストやスタッフへのギャラばかり嵩んだムダ金映画でしたな(個人的には面白いと感じたけど)。
ラインの降板後は、エスターハスの推薦で音楽家でもあるマイク・フィギスが監督に就任した。
フィギスは『リービング・ラスベガス』(1995年)でニコラス・ケイジにアカデミー主演男優賞をもたらした監督であり、脚本を自由に書き換えることや、実験的な撮影スタイルを認めることを条件に、本作の監督を引き受けた。
エイドリアン・ラインほどの実績のない監督だったが、それでも250万ドルという高額な監督料を受けとった。
都合400万ドルもかかったエスターハスの脚本は、フィギスによってまるで別物になるまで書き換えられ、エスターハスは「この脚本はマイクのものだ」と言って脚本家としてのクレジットを外すことを要請。
撮影が始まると、NYのメイン通りを封鎖するなど、これまた作品内容にそぐわぬド派手な規模の現場となった。
これだけやって興行成績はたったの264万ドル。
マイク・フィギスの監督料がようやくカバーできた程度で、脚本料すら回収できない大爆死となった。
ワン・ナイト・スタンド=一夜限りの関係
一夜限りの関係を示す「ワン・ナイト・ラブ」という言葉があるが、それは和製英語で、ネイティブは「ワン・ナイト・スタンド」という。
ウェズが演じるのはLAで大成功したCMディレクター マックスで、出張と友人の見舞いを兼ねて訪れたNYで、カレン(ナスターシャ・キンスキー)という超絶美人と出会う。
お互い既婚者同士で「ならんならん」と思いつつも、様々なアクシデントに巻き込まれる中で気持ちに火が着いてしまう。
どうせ明日になればマックスはLAに帰ってしまうのだし、過ちを犯したところで今夜限りだと割り切る二人だが、お互い知らなかっただけで実はガッツリめのしがらみのある仲で、1年後に気まずい再会をするというのが、ざっくりとしたあらすじ。
冒頭、『アルフィー』(1966年)のように画面に向かって話し掛けてくるウェズ。
思いがけないウェズの登場に少々面喰い、意外とライトな作風の映画なのかと思ったのだが、このような演出が走ったのは冒頭だけだった。この演出は何だったんだろう。
本作はとにかくトーンが一定しない。
コミカルになったかと思えば急にロマンティックになったり、かと思えばシリアスになったりと、観客に何を感じ取ってほしいのかが分からないままぐいぐい進んでいくのだ。
自由な演出スタイルを受け入れることがマイク・フィギスの条件だったが、音楽家でもあるフィギスは即興ジャズのノリでやりすぎたんじゃないかと思う。
見舞いも仕事も終わり、帰りのフライトまでの空き時間をホテルのロビーで本を読んで過ごしていたウェズは、隣のテーブルにいるひときわ美人(ナスターシャ・キンスキー)に目を奪われる。
こちらの向けるまなざしに対して、数秒ほど目を合わせてくれるナタキン。
席を立つ段階になって名残惜しそうに視線を向けると、ナタキンはこちらに近寄って声をかけてきた。完全に脈ありのやつだ。
美男美女の特権なのだろうけど、人生一度くらいはこういう出会いをしたいものである。
が、ここからがまぁまどろっこしいの。
このまま関係に至った方が刹那的で良かったと思うんだけど、「本当は浮気なんてする人たちではないんです。魔が差しただけです」と弁解をするかの如く、いろんな展開が詰め込まれていて話の進行を妨げる。
- ウェズが胸ポケットに刺していた万年筆が液漏れしており、汚れたシャツを洗うためにナタキンの部屋に通されるが、ウェズはバスルームを借りただけで礼儀正しくお礼をして去ろうとする
- 今夜、ナタキンはコンサートに行く予定なのだが、一緒に行くはずだった友人にドタキャンされていてチケットが一枚余っている。ナタキンは一緒に来てほしそうな顔をしているが、ウェズは予定通りLAに帰ることにする
- その日のNYは国連行事で大渋滞。ウェズはLA行きの飛行機に間に合わなかった
- 一晩空いたウェズは例のコンサート会場に向かい、ナタキンと再会。いい感じになるが、音楽とお酒を楽しむだけでお開きにしようとする
- そこに強盗が現れるがアッサリと撃退(ウェズを襲うとは愚かにもほどがある)。「怖くて一人で帰れない」と言うナタキンに連れ添って彼女のマンションに行くことにする
- 添い寝を求めてくるナタキンに対しても我慢を重ねるウェズだが、下着姿のナタキンを見ていよいよ我慢の限界を越えてオスを出す
どうだろう、この面倒くさい展開は。
シャツを洗うため部屋に通された時点で、すでにナタキンからはOKサインが出ている。
しかしその場では何もせず、交通渋滞だの強盗だのといったイベントを挟んでようやっと。
ここまでくると「紳士的」を通り越して「空気を読めない奴」である。
で、こうも浮気に消極的ならばおとなしく空港に居ればいいものを、コンサート会場には自分の意志でやってくる。
そこまでして私に会いに来ておきながら、一向に何もしないってどういうつもりなのと、ナタキンも不思議に思ったことだろう。
シャツを洗うため服を脱いだ流れでやってしまい、「私たちここで終わりよね」という会話で〆ればよかったと思うんだけど、なぜこんなにも言い訳がましくしてしまったのか、まったく理解に苦しむ。
兎にも角にもワンナイトスタンドを楽しんだウェズはL.A.の我が家に帰るのだけれど、股間の匂いをしきりに嗅ぎに来る愛犬とか、ピーチクパーチクうるさい嫁とか、笑わせようとしてるんだか何だかよく分からない空気感がしばし続く。
やっぱりこの映画、見方がよく分からない。
奥さんを演じるのは『ER緊急救命室』のミンナ・ウェンで、ERでは魅力的だったはずの彼女が、本作では随分とウザイ女性になりきっている。これぞ役者ともいえるが、長時間見ているにはキツい役柄だった。
ロバート・ダウニー・Jr.が全部持って行く
そして1年後。去年見舞いに行った友人がいよいよ危ないということで、ウェズは奥さんを連れて再度NYに飛ぶ。
この友人がロバート・ダウニー・Jr.。ゲイの演出家でエイズ患者という、いかにも90年代的な役回りだった。
当時のダウニー・Jr.はヤク中真っ盛りで、本作への起用においてフィギスには相当な不安があったそうだが(友人のウェズがダウニー・Jr.をゴリ押ししたらしい)、いざ撮影現場に現れると鬼気迫る演技でスタッフ・キャストは息をのんだ。
本作で賞を受け取ったのはウェズだったが、明らかにダウニー・Jr.の演技の方が上なのだ。一人だけ次元の違うパフォーマンスを披露している。
で、病床のダウニー・Jr.を見て人生とは幸福とはみたいなことを思い直すウェズなんだけど、そんなしんみりモードの中で、ダウニー・Jr.の兄嫁として紹介されたのが、なんとナタキンだった。
二度と会うことはないと思っていた一夜の間違いの相手と、よりにもよってお互いの配偶者の前で再会することになるとは。
ちょっと想像するだけで身も凍るようなシチュエーションなのだが、肝心のウェズとナタキンは、この時の驚愕や狼狽をあまりうまく表現していない。
ここから二人は、配偶者達や、何事かを悟ったダウニー・Jr.の視線を感じつつも、「死ぬほど好きなのはやっぱりあの人ね」なんて正直な感情の中でモヤモヤするわけなんだが、やはりウェズとナタキンの抑えすぎた演技が、不倫という背徳の美学につながっていかない。
ダウニー・Jr.が出ている場面だけが猛烈に面白く、それ以外は退屈という時間がしばし流れ、ダウニー・Jr.が亡くなったところで映画は完全に失速するんだけれど、ここからとんでもない展開が待ち受けていた。
ある意味驚愕のラスト ※ネタバレあり
ついに我慢の限界に達したウェズとナタキンはセックスするために小屋に駆け込むんだけど、そこでは別のカップルがすでにおっ始まっていた。なんとそれはウェズとナタキンの配偶者だったのだ。
「愛とは?死とは?」という高尚な流れできたドラマの結末が、まさかスワッピングとは思わなかった。
これは笑うべきだったんだろうか?
やはり見方のよく分からない映画である。