【人物評】破壊王レニー・ハーリン監督がぶっ壊してきたもの

雑談
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『ダイ・ハード2』では空港を、『クリフハンガー』では山を、『カットスロート・アイランド』では映画会社を、『ロング・キス・グッドナイト』では自分の家庭をぶっ壊した凄い奴。レニー・ハーリンは80年代後半から90年代前半にかけて物凄い勢いでハリウッドの頂点に登り詰め、90年代後半に物凄い勢いで凋落した監督でした。

マイケル・ベイが台頭するまで、ハリウッドの破壊王とはレニー・ハーリンのことを指していました。彼の破壊の記録を辿ろうではありませんか。

レニー・ハーリンとは

1959年フィンランド出身。本名はレニー・ラウリ・マウリッツ・ハルジョラと言います。凄い名前だ。16歳の時にドン・シーゲル監督×チャールズ・ブロンソン主演の『テレフォン』の撮影現場を見て映画監督を志しました。

名門ヘルシンキ大学を卒業しているという、実はインテリ。21歳にしてテレビ番組を演出するようになり、24歳にして映画監督に鞍替え。チャック・ノリスの息子マイクを主演に迎えて『死線からの脱出』(1986年)を監督しました。やると決めたことを次々に実現させていった行動力には頭が下がります。

『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)撮影時のレニー・ハーリン

かくして母国フィンランドで監督としてのキャリアを開始したのですが、母国の製作規模では意図した映画が作れないとの判断からハリウッドに進出したとされています。ただし私個人の見解としては、フィンランド史上最高額の製作費をかけた『死線からの脱出』(1986年)があまりに反共的な内容すぎて上映禁止になり、各方面に大損害を与えてしまったためにフィンランド映画界に居られなくなったのが実情ではないかと推測しています。

ハリウッドに進出するやすぐに仕事が舞い込み、ヴィゴ・モーテンセン主演の『プリズン』(1987年)と人気シリーズ第4弾『エルム街の悪夢4 ザ・ドリームマスター 最後の反撃』(1988年)を立て続けに監督。

その後、『レッド・オクトーバーを追え!』(1990年)に引き抜かれたジョン・マクティアナンの後任として『ダイ・ハード2』(1990年)を監督し、前作以上の大ヒット。続けてスタローン主演の『クリフハンガー』(1993年)も大ヒット。ハリウッドのトップディレクターとなりました。

レニー・ハーリンのここが凄い!

撮った映画が凄い!

奇跡的な完成度だった『ダイ・ハード』(1988年)の続編という重い企画を任され、見せ場の異常なボリュームとハイテンションで乗り切った『ダイ・ハード2』(1990年)は、その後のアクション映画における続編のあり方を決定付けたとも言えます。

『クリフハンガー』(1993年)では同年の大ヒット作『ジュラシック・パーク』(1993年)をも上回る製作費をかけました。特にスタントにかけられた費用は史上最高額であり、見るからに危険な撮影を敢行してド迫力の見せ場を作り上げました。

製作費9800万ドルをかけた『カットスロート・アイランド』(1995年)では実物大の帆船を建造し、最後には木っ端みじんに破壊。凄すぎます。この映画はあまりに製作費がかかり過ぎたため、ついでに映画会社のカロルコ・ピクチャーズまでを破壊。やり過ぎです。

さらにこの映画の凄いところは、赤字映画としてのギネス記録を持っているということです。カロルコ倒産の影響で満足に広告宣伝も打たれないまま公開されてしまい、全米トップ10には一度も顔を出さずに撃沈。全世界でたったの1000万ドルしか稼げず、製作費と売上高の落差が史上最も大きい作品となったのでした。

『カットスロート・アイランド』のどうかしちゃってるクォリティの帆船
©Metro-Goldwyn-Mayer

撮らなかった映画も凄い!

1980年代後半には『エイリアン3』の監督として製作に携わりました。結局、納得いく脚本が出来上がらなかったため『エイリアン3』からは降板したものの、後任のデヴィッド・フィンチャーが同作との関りを一切拒否したことから、Blu-ray等に収録のメイキングでは、ハーリンが製作現場について語っています。

1990年頃にはカロルコより”Gale Force”の監督依頼が来ます。ハリケーンに紛れて上陸した現代の海賊とネイビーシールズが戦闘を繰り広げるというやたら景気の良いアクション大作であり、主演はシルベスター・スタローン。

激しい入札競争の末にこの脚本を50万ドルで落札したカロルコは、監督にレニー・ハーリンを熱望。当初気乗りのしなかったハーリンに対してどんどん監督料が吊り上げられていき、最終的に300万ドルというとんでもない金額でのオファーとなっていました。

さすがにハーリンは引き受けたものの、度重なる脚本の書き直しで企画は仮死状態に陥り、スタローンと共に『クリフハンガー』(1993年)の製作へとシフトしました。

また、1992年頃には新人脚本家グラハム・ヨストが書いた『スピード』の監督依頼を受けていたのですが断り、撮影監督だったヤン・デ・ボンの監督デビュー作となって大ヒットしました。

批評なんて気にしない!

ゴールデン・ラズベリー賞以外に、いかなる映画賞へのノミネートも受賞経験もなし!30年以上のキャリアを持ち、知名度もある監督なのに、いかなる映画賞にも引っ掛かったことがないというのは逆に凄いと思います。

現場での暴君ぶりが度を越している!

ハーリンの特徴は現場での暴君ぶりであり、俳優達とはたいていトラブってます。『ダイ・ハード2』(1990年)のブルース・ウィリスはハーリンとは二度と仕事をしたくないと言い、『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)のサミュエル・L・ジャクソンは、同作の撮影が人生で一番辛い経験だったと言っています。

『クリフハンガー』(1993年)では、ある場面で安全策のワイヤーが見えることに文句をつけて、スタントマンに命綱なしで岸壁を登らせました。

ただしこの人が立派なのは自分自身でも無茶をするということであり、撮影で用いる安全策の信頼性を披露するために、自らハーネスを着用して崖から飛んで見せたりもしました。

元奥さんがアカデミー賞女優!

1993年には女優のジーナ・デイヴィスと結婚。『偶然の旅行者』(1988年)でアカデミー助演女優賞を受賞した演技派なのですが、当サイト的には『ザ・フライ』(1986年)でブランドル蠅の頭を吹っ飛ばした人と言う方が分かりやすいですね。

ハーリンは『カットスロート・アイランド』(1995年)『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)の2本連続で奥さんを主演に起用したのですが、前述した通り『カットスロート・アイランド』はギネス記録になるほどの爆死。

次いで『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)も製作費6500万ドルに対して全世界で8945万ドルしか稼げず、劇場の取り分等を差し引けば赤字でした。ただし『ロング・キス~』は政府の陰謀劇と記憶喪失ものの人間ドラマと爆破アクションが組み合わされた見ごたえある佳作なので、スルーしないで一見されることをお勧めします。

ハーリンのきつい撮影に付き合った上に2本連続赤字ともなれば奥さん的にも我慢の限界が来たようで、二人は1998年に離婚しました。

なお『ロング・キス・グッドナイト』のPRでの来日時に、「セーラームーン」の大ファンであるハーリンはジーナ・デイヴィス主演で実写化したいと語っていましたが、筋骨隆々なジーナ・デイヴィスのセーラームーンはキツイので、実現しなくて何よりでした。

ハーリンの転落劇

『カットスロート・アイランド』(1995年)と『ロング・キス・グッドナイト』(1996年)を連続してコケさせても、ハリウッドはまだハーリンを見捨てていませんでした。

ワーナーは遺伝子操作で知能を持ったサメが人を襲う海洋パニック『ディープ・ブルー』(1999年)の製作にあたり、ハーリンこそが適任と考えて監督に据えました。この年のワーナーは『マトリックス』(1999年)も抱えていたのですが、彼らの本命はむしろ『ディープ・ブルー』の方でした。

『マトリックス』は期待値の低い作品がリリースされる3月に全米公開された一方で、『ディープ・ブルー』の公開日はサマーシーズン真っただ中の7月。しかし結果は『マトリックス』が北米だけで1億7147万ドルもの興行成績を叩きだしたのに対して、良い時期に陣取ったはずの『ディープ・ブルー』は7364万ドルに留まりました。完全に期待外れです。

それでもハーリンを見捨てなかったワーナーはシルベスター・スタローン主演のレース映画『ドリヴン』(2001年)をハーリンに監督させます。製作費9400万ドルがかかった大作でしたが、北米で3272万ドルしか稼げず爆死。おまけにゴールデン・ラズベリー賞にもノミネートされ、ハーリンの命運はここで尽きました。

その後はサスペンスアクション『マインドハンター』(2004年)、反共戦争映画『5デイズ』(2011年)、SFホラー『ディアトロフ・インシデント』(2013年)など中規模作品しか監督できなくなり、大作でこそ個性が活きるハーリンは本領発揮の場を失いました。

中国で再起を図る現在

しかし、レニー・ハーリンはこのままくたばるタマではありませんでした。2016年に北京に製作会社ミッドナイト・サン・ピクチャーズを設立し、自身の活動拠点も永久に中国に移すと宣言。活躍の場を必要とするハーリンと、世界に通用する映画を製作したい中国映画界の思惑の一致によるものでした。

ジャッキー・チェン主演の『スキップ・トレース』(2016年)、ファンタジーアクション『ソード・オブ・レジェンド 古剣奇譚』(2018年)を監督し、中国の映画人として頑張っています。

まとめ

レニー・ハーリンの浮き沈みの激しすぎる映画人生は、それ自体が興味深いものでしたね。こうして振り返ると本当に成功したのは『ダイ・ハード2』(1990年)『クリフハンガー』(1993年)の2本だけだったような気もするのですが、実際以上の成功者だと思わせる謎のハッタリも含めて、ハーリンの魅力だったと言えます。

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