【凡作】ソルジャー(1998年)_40歳の童貞ソルジャー(ネタバレなし・感想・解説)

SF・ファンタジー
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(1998年 アメリカ)
ダメな方のポール・アンダーソンの悪いところがドバっと出てしまったSFドラマ。解任されたソルジャーのその後というドラマ性の高い作品であるにも関わらず、ソルジャー自身も、ソルジャーに関わる人々もうまく描写できておらず、彼らのドラマがまるで盛り上がらない。

作品解説

『ブレードランナー』の副産物だった

本作の脚本を書いたのはデヴィッド・ウェブ・ピープルズ。『ブレードランナー』(1982年)、『許されざる者』(1992年)、『12モンキーズ』(1996年)などで知られる脚本家である。

ピープルズが本作の脚本を書き始めたのは『ブレードランナー』(1982年)製作中のことだった。

『ブレードランナー』(1982年)は人間に代わって重労働に従事させられてきた人造人間が自我を持ち、自分の人生の意義を求めて逃亡を図る話だったが、作品中に彼らの労働現場の描写はなかった。ピープルズはその部分を膨らませてこの脚本を書いたというわけだ。

折に触れてピープルズは本作が『ブレードランナー』と世界観を共有していると述べており、劇中に登場する廃棄物の山の中には『ブレードランナー』に登場した乗り物スピナーが埋もれている。

最初にこの企画に取り組んだのはテッド・コッチェフ監督で、『ランボー』(1982年)でも組んだシルベスター・スタローンを主演に据えた。勝手な推測だが、ここでアクション要素が増えたのだろうと思う。ただしこのコンビでの企画は進展せず終いだった。

続いて主演の座にはクリント・イーストウッドが就いたが、こちらの企画も頓挫。

後にイーストウッドは、同じくピープルズが脚本を書いた西部劇『許されざる者』(1992年)に監督・主演し、アカデミー賞を受賞することになる。

カート・ラッセルのギャラが2000万ドル

そんな感じで、この脚本は長年に渡ってハリウッド界隈を漂い続け、スタジオからスタジオへと転々としていたのだが、90年代にワーナーが本格的に製作を決定。

当時気鋭の監督であり、『X-MEN』の打診なども受けていたポール・W・S・アンダーソンが監督に就任した。

そして主演はカート・ラッセルに決まったが、そのギャラは2000万ドルという法外な金額だった。

90年代はスターのギャラが高騰していた時期ではあったが、それでも2000万ドルも受け取っていたのはトム・クルーズやアーノルド・シュワルツェネッガーら、その看板だけで世界中で集客できていたほんの一握りのスターだけだった。

カート・ラッセルは良い俳優だとは思うが、彼らほどの動員力はない。大ヒット作に出演した経験のないラッセルにそれほどのギャラが支払われるに至った経緯はよく分からない。

後にラッセルは、ギャラに負けて本作に出演したと言っている。

監督のビジョンが実現できず

ピープルズとアンダーソンは本作を『シェーン』(1953年)のような映画にするつもりであり、昔ながらの西部劇の雰囲気を出すためオープンセットでの撮影を望んだ。

しかしカート・ラッセルの体作りのために撮影開始が数か月遅れた上に、仕切り直しの撮影開始日直前にロケ地をハリケーンが襲ったために、スタジオ撮影を余儀なくされた。

このためにアンダーソンは事前に考えていたビジョンの実現が出来なくなったと述べている。

そして撮影を開始するや、ラッセルが足首を骨折。撮影は1週間止まり、その後はラッセルが横たわっている場面から撮り始め、アクションは最後に撮影された。

全米大コケ

1998年10月23日に全米公開。同時期に強力なヒット作がいたわけでもないのに初登場5位と低迷した。翌週は7位、3週目にしてトップ10圏外と興行的に大苦戦を強いられ、全米トータルグロスは1459万ドルに留まった。

製作費6000万ドルの回収はおろか、カート・ラッセルの出演料分も稼げないという大爆死だった。

感想

新旧ソルジャーの対比ができていない

主人公トッド(カート・ラッセル)はこの世に生を受けた直後からソルジャーとして育成され、いくつもの戦場で華々しい戦果を挙げてきたのだが、ある時、遺伝子操作により生み出された新型ソルジャーに敗れて廃棄処分されるというのが序盤部分。

かくして廃棄されたトッドは、紆余曲折ありつつも新型ソルジャーとの再戦を迎えることとなるのだが、体力面で圧倒的優位に立つ新型ソルジャーに対し、知略面で勝る旧型ソルジャーがゲリラ戦法で反撃の隙を狙うことが本作のパワーバランスなのだろうと思う。

しかし本編中に適切な描写がないので、どうにもこれが盛り上がらない。

冒頭では現役時代のトッドの雄姿が描かれ、観客はここで彼のファイトスタイルを知ることになるのだが、どんな戦場でも棒立ちで銃を構えて敵に対して力押しをしているだけ。これでは新型ソルジャーの戦法と変わったところがなく、新旧の対比になっていない。

ここでのトッドは命令通りに突進する阿呆ではなく、いかにこちらの損害を抑えながら敵を制圧するのかという頭を使った戦い方をして、それが後半での反撃に活きてくるという見せ方にして欲しいところだった。

魅力的ではない人間ドラマ

廃棄後のトッドは貧しい宇宙移民達の集落に流れ着き、そこで引退後のセカンドライフを送ることとなる。これが作品の本論部分。

その惑星は宇宙のゴミ捨て場として使われているだけあって、資源が出るわけでも戦略的な重要性があるわけでもなく、本当に何の価値もない。何の価値もない惑星なので略奪者等の外敵の脅威も存在せず、住民たちは貧しいが平和に暮らしている。

生まれてこの方戦うことしかやってこなかったトッドが、ある日突然、戦いのない集落で暮らすこととなったわけである。

これをわが身に置き換えてみると、結構大変な話であることが分かる。

社会人経験数十年のベテランが、ある日突然、それまでに積み上げてきたものが何の意味もない部門に配置されて「今日から新人として頑張ってくれ」なんて言われると、絶望で目の前が真っ暗になるだろう。

そんな境遇に置かれたトッドは戸惑う。

今まではソルジャーとして「考えるな」「喋るな」という指導を受けてきたのに、ここの住民たちはやたら質問してくるし、意見も求めてくる。意見なんてものはないのに。

そして鍛錬を重ねることがソルジャーとしての習慣なのでドラム缶をサンドバックに見立てた打ち込みをやっていると、「怖い」といって抗議が殺到する。

不得意なことをやれと言われ、得意なことをやるなと言われるストレスには、筆舌に尽くしがたいものがある。

そして思いを言葉で表現できないという役どころながら、カート・ラッセルは目の演技だけでトッドの苦境を表現してみせる。ここでのラッセルの演技は素晴らしかったと思う。

ただし監督は「ダメな方のポール・アンダーソン」でお馴染みのW・Sなので、せっかくのラッセルの熱演を無駄にしてしまう。

大きな問題だったのは彼の相手役となる集落の住民たちに魅力がないことで、彼らの存在が観客にとっても重要になっていかないので、トッドとの交流への関心がいつまで経っても喚起されない。

また、トッドは住民の一人サンドラ(コニー・ニールセン)の性的な魅力に触れ、そのことが封印されてきた彼の人間らしさ、生物らしさが解放されるきっかけとなるのだが、そうした哲学的なアプローチもアンダーソンは扱い切れていない。

その結果、美人の人妻にムラムラくる40歳の童貞ソルジャーという下世話な構図になってしまい、脚本レベルでは存在していたと思われる人間性に対する高尚な考察というものはすっかり失われてしまった。

ゲイリー・ビジーだけは良かった

そんなグダグダの中で、唯一、気を吐いていたのがゲイリー・ビジー扮するチャーチ大尉である。

彼は『ランボー』(1982年)におけるトラウトマン大佐によく似たキャラクターで、非人道的な方法でソルジャーを生み出した悪人であることに間違いはないのだが、ソルジャーたちとの間には精神的な繋がりがあって、どこか父性を感じさせる。

軍人としても味わい深いところがあって、集落の住民たちを攻撃せよとの命令にいったんは反対するのだが、それでも具申が聞き入れなければ素直に従い、「やるからには徹底的に勝ちにいかねば」という姿勢で臨もうとする。生粋の職業軍人という風情なのだ。

体制側にいるために悪を背負ってはいるが、本質的に悪い人間ではないということが伝わってくる面白キャラだったと思う。

ただし、こんな面白いキャラクターの扱いが本編中では驚くほど軽く、監督はどのキャラクターが魅力的であるかという区別もついていないことが、本作の不出来を実によく表している。

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