(1999年 アメリカ)
映画史上最大クラスの損害を出した空前の大コケ映画だが、アラブ人旅行家視点で英国の叙事詩を再構築したインテリな内容と、ジョン・マクティアナンのアクション演出の組み合わせは決して悪くない。騙されたと思って見て欲しい良作である。
史上最大の赤字映画
『プレデター』(1987年)、『ダイハード』(1988年)、『レッド・オクトーバーを追え』(1990年)で男性映画の頂点を極めたジョン・マクティアナン監督による大コケ映画。
英語版wikiの「興行的に大失敗した映画のリスト」を見ると、『天国の門』(1980年)、『アラモ』(2004年)、『47RONIN』(2013年)といった大コケ映画界隈での有名作品達を押さえ、堂々のトップにあげられている。
インフレ調整後の推定損失額は最大2億3600万ドルで、長らくギネスブックにも載っていたレニー・ハーリン監督の『カットスロート・アイランド』(1995年)をも上回り、史上最大の赤字映画である可能性をも秘めている。
この映画の凄いところは、コアな映画ファンからもほとんど認識されていないということだ。物凄い赤字を叩き出したにも関わらず誰からも知られていない、これぞ真の大コケ映画である。
『クレオパトラ』(1963年)や『ウォーターワールド』(1995年)といった大コケ映画界の大御所たちは、初公開時こそスタジオの期待に応えられなかったものの、その知名度から息の長い作品となり、時間をかけつつも何だかんだで黒転させている。
本当にヤバイのは、本作のような永遠に取り戻す見込みのない映画である。
『ジュラシック・パーク』(1993年)、『ツイスター』(1996年)の人気作家マイケル・クライトンの小説『北人伝説』(1976年)が原作。
『ダイ・ハード3』(1995年)を大ヒットさせた製作アンドリュー・G・バイナ×監督ジョン・マクティアナンのコンビによって製作が開始されたのが1997年夏頃だった。
当初8500万ドルだった製作費は、主要撮影が終わる頃には1億ドルにまで膨れ上がっていた上に、テスト上映の結果が思わしくなく再撮影は必須となった。
方針転換を余儀なくされた時点でジョン・マクティアナンは降板し、『ウエストワールド』(1973年)や『未来警察』(1984年)での監督経験も持つ原作者のマイケル・クライトンが監督に就任(ノークレジット)。
クライトンは編集と撮影をやり直し、また『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(1996年)のグレーム・レヴェルが作曲した音楽を全ボツにして、大作曲家ジェリー・ゴールドスミスを新たに雇った。
こうした全面工事によって公開は当初予定より1年以上ズレ込んだのだが、悲劇はそれだけに留まらなかった。
なんと全米公開が大ヒット作『シックス・センス』(1999年)とモロかぶりしてしまったのである。
ジョン・マクティアナンにとっては『ダイ・ハード』(1988年)で共に名を挙げたブルース・ウィリスにとどめを刺されるという何とも因果なことになったのだが、兎にも角にもシャマランというビッグウェーブに飲み込まれ、本作には悪評すら立たないという散々なことになった。
推定1億6000万ドルもの製作費を費やしたにも関わらず、全世界で6000万ドルの興行成績しか上げることができず、1億ドルを越える損害を出した。これを現在の貨幣価値に換算すると2億ドル超の損害ではないかと言われている。
この歴史的大コケにショックを受けた名優オマー・シャリフは、俳優業を引退してしまった。
なお本作が誰の映画なのかという点では議論が割れている。
クレジットこそジョン・マクティアナンではあるものの実質的な監督はマイケル・クライトンだという見方が強いのだが、2023年の対談においてジョン・マクティアナンは、「『13ウォーリアーズ』でマイケル・クライトンが監督したのは3つの場面のみで、ほぼ自分の映画である」と主張したのだ。
マイケル・クライトンもアンドリュー・G・バイナも鬼籍に入った現在となっては、彼の主張の真偽を確かめることは困難である。大勢がツライ思いをした映画なので、今さら本作のことを蒸し返したがる関係者もいないだろう。
ただし私が声を大にして言いたいのは、コケたからと言って悪い映画ではないということである。本作は非常にユニークな男性映画の良作なので、ぜひ多くの方に見ていただきたい。
ベオウルフ×ヴォルガ・ブルガール旅行記×七人の侍
西暦922年。権力者の女に手を出して遥か北方に左遷されたバグダッドの詩人アハメッド(アントニオ・バンデラス)は、王様の葬式だというのに飲んで騒いで大騒ぎするバイキングたちに絡まれてドン引きしていた。
そんな折、バイキングの別の部族が野営地に現れ、我々の国土がバケモノに蹂躙されてえらいことになっているので力になって欲しいと懇願される。
すると占い師と思しき汚らしいばあさんが「月の数と同じ人数の戦士を派遣する」と言い出す。
バイキングの暦で1年は13か月なので、派遣されるのは13人。ドラフト会議のごとく次々と戦士の名前を読み上げるばあさんと、指名されてバカ騒ぎする戦士達。
そんな光景を苦々しい表情で見つめるアフメッドだが、「最後の1人は助っ人外国人がいい」というばあさんの鶴の一声で、この中で一番遠くからいらしたアフメッドが指名されてしまう。
原題”The 13th Warrior”はこれに由来する。
かくして13人の戦士達とバケモノとの死闘が始まるのだが、隣国のバケモノ騒動に加勢して武勲をあげる物語は英国最古の叙事詩『ベオウルフ』をなぞらえたものだし、主人公アフメッドは『ヴォルガ・ブルガール旅行記』で知られるアラブ人旅行家イブン・ファドラーンがモデルとされる。
すなわち本作は、ベオウルフの物語を10世紀当時の先進国であるアラブ人視点で描いた斬新な時代劇なのである。
さらにジョン・マクティアナン監督は『七人の侍』(1954年)のような集団アクションの要素を付け加え、和洋折衷どころではないごった煮感溢れる作品として仕上げた。
なお映画では言及されないのだが、ヴェンドルと呼ばれる敵種族には、ネアンデルタール人の末裔という設定がほのめかされている。すなわちこれはホモ・サピエンスvsネアンデルタール人の種の存亡をかけた戦いでもあるわけだ。
どうだろう、この狂った内容は。
インテリな題材を男味に煮しめたような作風は最高としか言いようがない。
マクティアナンの熟練したアクション演出
これだけ多くの要素がパンパンにブチ込まれた複雑な作品であるにも関わらず、ジョン・マクティアナン監督は一本気なアクション映画として演出している。
得体のしれない脅威に屈強な男たちが襲われるという概要は、さながら『プレデター』(1987年)であり、敵の姿をなかなか視認できない中での戦闘も『プレデター』より引き継がれている。
戦士達の個性が『プレデター』の特殊部隊の面々ほどはっきりしていない、暗闇でのアクションが見づらいといった欠点はあるので、残念ながらアクション映画としては『プレデター』よりも劣っていると言わざるを得ないが、それでも松明の光で撮影された夜襲場面などには独自性があった。
また巨費が投じられただけあってオープンセットや衣装がどれも本物にしか見えない、バイオレンス面では相当攻めているといった加点要素もあり、これはこれで悪くない時代劇として仕上がっている。
そしてベラボーに強いバイキングと、その野蛮さについて行けないアフメッドとの対比が面白い。
戦士の個性がはっきりしていないという欠点は先述した通りだが、13人もいれば顔と名前が一致しない奴が何人かいても仕方ないだろう。他方で核となる数人はちゃんとキャラ立ちしているのだから、集団アクションとしての基礎はとりあえずできていると言える。
バイキングたちは基本ガハガハ笑ってるだけの脳筋なんだけど、その実よく考えて動いていること、時にバカを装っているだけのこともあり、なかなか侮れない奴らだということが見えてくる。
当初、文明国から来たアフメッドは野蛮なバイキングを見下しているし、バイキングもまた口先だけで非力なアフメッドをからかうんだけど、次第に互いの強みを見出し、良き戦友になっていく展開は、定番ながらもよくできていた。
男の群像劇を描かせるとピカイチなジョン・マクティアナン監督の面目躍如といったところか。
再撮影はうまくいっていないかな
他方で再撮影に絡んだ混乱もはっきりと見て取れる。
王女役のダイアン・ヴェノーラは、アントニオ・バンデラスに次ぐ2番目のクレジットを得ているにも関わらず、数えるほどのセリフしか発せず、本筋にもほとんど絡んでこない。
また中盤では王子一派と主人公グループの小競り合いがあるのだけど、これが後の展開にいきることはない。
こうした不自然な流れから、マクティアナン版では詳細に描かれていたであろう宮廷での主導権争いが大幅にカットされたという事情が透けて見えてくる。
つまらない場面がカットされるのは致し方ないが、切るなら切るで不自然にならないようにやってほしかったかな。
またクライマックスの戦闘が異常に雑という点も気になった。
ヴェンドルの”母”を殺害し、主人公たちが命からがら脱出する場面がマクティアナン版のクライマックスだと思われるのだが、クライトンはそれだけだと不足に感じたのか、”母”を殺されて怒り狂ったヴェンドル軍団が村に総攻撃を仕掛けてくるという新たなクライマックスを付け加えた。
このクライマックスは大勢の騎馬隊を動員したかなり大掛かりなものなんだけど、それまでの見せ場と比較すると数段落ちる出来栄えとなっている。
マクティアナンとクライトンの演出力の差がはっきりと出てしまっているのだ。
『プレデター』や『ダイ・ハード』を見ればお分かりの通り、マクティアナンは空間演出に長けた監督である。
本作の仕事が彼のベストとは言えないが、それでも襲撃場面の演出は的確で、両軍がどのような統制下で動いているのかがセリフを使わずとも伝わってきたし、戦いには過程や流れがちゃんと存在していた。
一方クライトンは小説家としては偉大だが、映画監督としては凡庸だった。
クライマックスは両軍ひたすら力押しで、気が付けば敵の大将を討ち取っておりましたという、何のスリルも興奮もない腑抜けた結末を迎える。
再撮影も含めてマクティアナンが担当していれば見違えるような良い作品になったかもしれないのだが、映画とはまったく難しいものである。
ただ、こうしたマイナスを考慮しても本作には駄作と切って捨てられないものがあるので(IMDBなどを見ても「意外と好き」という声が多い)、未見の方はぜひご覧になってほしい。