(1996年 アメリカ)
野球バカが高じて人まで殺してしまうアブナイ人を名優デ・ニーロが演じたサイコ・スリラー。人生八方ふさがり状態でヤケを起こした主人公の姿には、物の憐れが宿っている。
感想
ダメ人間ほど自意識が高い
昔、日曜洋画劇場で見たけど、当時はさほど面白くは感じなかった。
世界的に低評価の作品ゆえか、Blu-ray化等もなされておらず、その後は特に触れることもなかったのだけど、最近、TOKYO-MXで放送されていたので25年ぶりに見た。
ちなみに吹替は日曜洋画劇場版ではなくビデオ版だったが、デ・ニーロの声をよく当てる津嘉山正種さんだったので抜群の安定感だった。
そんな吹替の良さもあってか今回の鑑賞は随分と楽しめた(決して日曜洋画劇場版が悪かったという意味ではない)。
自分も相応の年齢になり、主人公ギル(ロバート・デ・ニーロ)の心情を理解できるようになったことも大きいと思う。
熱心な野球ファンである中年男ギルがファン心理をこじらせ、贔屓にしている選手のライバルを殺すわ、選手の息子を誘拐して「俺のためにホームランを打て」と迫るわと大暴走するというのが、ざっくりとしたあらすじ。
初見時はまだ高校生だったこともあり、私にとってギルはこじらせた厄介なおじさんでしかなかったのだが、40代になってあらためて鑑賞すると、ギルに対して物の憐れを感じた。
序盤で描かれるのがギルの日常で、妻子とは別居中、会社では業績が上がらずクビ寸前という切羽詰まった状況にある。
そんな中、重要な取引先とのアポと、息子との面会と、大好きなサンフランシスコ・ジャイアンツの開幕試合がバッティングするという一大事が発生。
この事態に直面したギルは、息子と一緒に開幕試合を観戦しつつ、アポの時間に中抜けして商談に行くという無謀にもほどがある計画を立てる。
当然のことながらこんな無茶がうまくいくはずもなく、取引先からは大クレームを受けるわ、息子を置いて消えてしまったことで父親失格の烙印を押されるわで、ギリギリ守ってきた職も親子関係もすべて失ってしまう。
彼に残ったのは野球だけ。
そもそも過剰気味だったギルのファン心理は、これよりはっきり異常の領域へと突入していく。
「日常生活で報われない→押し活に精を出す→余計に日常生活がおかしくなる→押し活がより先鋭化」という負のループは、ギルにとどまらない一般的な事象だ。
「そもそも悪いのはギルだろ」というご意見もあるかもしれないし、それはごもっともだと思う。私が高校時代に鑑賞した際にも、終始不機嫌そうなおっさんが、そのうち自滅しただけという見え方だった。
おそらくギル本人だって、悪いのは自分だと心の奥底ではわかっているはず。
しかし長年かけて染みついてしまった考え方、性格、不器用な振る舞いは、中年を過ぎる年齢になってくると、いよいよ変えようがなくなる。
こんな自分で残りの人生を生き抜くしかない、その絶望の中にいるはずだ。
そうして自分自身の問題、日頃の厄介ごとを見ずに済む趣味・推し活に没頭するようになるのだ。
そしてもう一つ厄介なのが、どんなダメな人にでも自尊心はあるということだ。というか、ダメ人間こそ自尊心をこじらせている。
周囲からの敬意を勝ち得ている人は、他者評価のみで自尊心が満ち足りているので過剰な自意識を持つ必要がなく、謙虚な振る舞いができる。
一方ダメな人は他人からの敬意を得られていないものだから、空っぽになった自尊心という器を自分で満たさなければならない。
だから自分は正当な評価を受けていないと嘆いたり、自分にとって不利な競争だったと言い訳したり、他人に対して過剰に攻撃的になったりする。どの職場にもいる他人をこき下ろすことに必死になっている人たちは、自尊心を何とか維持しようともがき苦しんでいるのだ。
ギルの口癖は「人生は不公平だ」
もちろん競争は平等ではない。低い位置からスタートしなければならない人生もある。
そして「私はこんなに可哀想なんです」と訴えれば周囲の人たちは同情してくれるかもしれない。
だからと言って低い点数でもいい大学に入学させてもらえたり、会社の人事評価において下駄を履かせてもらえたり、理想的な配偶者が与えられるわけではない。
スタート位置がどこにあろうが人生は自分のものでしかなく、他人や社会が結果責任を背負ってはくれないのだ。世知辛いが、これが人間社会というものである。
ギルは、そうした理不尽ではあるが変えようもないことに対して不平不満を言い続け、その時間・労力を自分の社会的価値を高めるための活動に費やしてこなかった。
その結果が今のみじめな姿なのである。
こうして悪い意味で仕上がってしまった自分の姿を見たくないから、押し活に余計に専念するようになる。
そして、ギルの執着の対象がなぜ野球だったのかが最後の最後で明らかにされるのだが、これもまた切なかった。
ギルの部屋に踏み込んだ警察は、大量のスポーツ記事の切り抜きと並んで、ギルが少年野球で逆転ホームランを打ったという数十年前の地方紙の記事を発見する。
周囲からの注目と賞賛を集め、ギルの自尊心がもっとも満ち足りたのがこの瞬間だったのだ。
12歳当時の少年野球での活躍が人生のピーク・・・
そりゃ荒れるわなと同情してしまった。
サイコ・スリラーとしてはイマイチ
そんなわけで中年男が自滅していくドラマとしては面白かったんだけど、サイコ・スリラーとしてはイマイチだった。
ビジュアル派監督×サイコ・スリラーの組み合わせは、奇しくも日本では同年の公開となった『セブン』(1995年)と共通している。
闇や影を用いたデヴィッド・フィンチャーのビジュアルが犯人ジョン・ドウの心象風景と一致していた『セブン』と比較すると、トニー・スコットのテカテカピカピカ演出はサイコ・スリラーの色ではなかった。
また、一ファンに過ぎないギルが、オフの選手たちの溜まり場となっているバーを知っていたり、選手が一人で入っているサウナにまで入り込んだり、警察による厳重警備をかいくぐって審判に化けたりといった展開も突飛に感じた。
もはやギルは工作員の領域に達しており、そこまでのリサーチ能力や潜入能力があれば、俗世間でもうまくいっただろと思わなくもない。
これまた『セブン』との比較になるが、超常的な存在として扱われていたジョン・ドウが少々無理なことをやっても「あいつならそれくらいやれるのかも」なんて納得感があった。
一方、本作のギルの場合はしがない小市民に過ぎないので、「なぜ彼にこんなことができたのか」という理詰めは必要だったと思う。