【良作】ゼイリブ_真実を知るのはプロレスより辛い(ネタバレあり・感想・解説)

SF・ファンタジー
SF・ファンタジー

(1988年 アメリカ)
ジョン・カーペンター監督による風刺アクションで、隠された真実に鈍感な大衆という、いつの時代にも当てはまる図式を娯楽に落とし込んだ構成力が光っています。街角プロレスという変な見せ場もありますが、それも含めてカーペンターらしいなと。

作品解説

短編小説の長編映画化

本作はレイ・ネルソンの短編小説『朝の八時』(1963年)をジョン・カーペンター(以下、JC)が脚色した作品です。ネルソンはフィリップ・K・ディックと親しかったSF作家であり、ディックとの共著もあります。

『朝の八時』は催眠術によって覚醒した主人公が、実はこの社会は人喰いエイリアンに支配されていることに気付くという内容であり、元は5ページ程度の短編でした。

JCはこれを80年代レーガノミクス批判の文脈で脚色したのですが、主演のロディ・パイパーが実はレーガン支持だったという逸話も残っています。

また、JCは本作を監督するためにパラマウントからの『危険な情事』(1987年)のオファーを断りました。

全米No.1ヒット作

本作は1988年11月4日に全米公開され、初登場1位を記録。

ただし翌週以降は上映館数が激減したこともあってランクダウンし、出演したキース・デヴィッドはこれを陰謀だと言ったらしいのですが、まぁJC作品が一般受けすることは珍しいので、自然な減少だったと思いますよ。

全米トータルグロスは1300万ドルで大ヒットとは言えないものの、400万ドルという控えめな製作費を考えると充分に健闘しました。

感想

ノマドランド×西部劇

貧富の格差が広がった80年代末のアメリカにおいて、肉体労働者がこの社会はエイリアンに支配されており、サブリミナルで自己決定ができない状態に置かれていることに気付くというのがザクッとしたあらすじ。

主人公の名前ネイダはスペイン語で「無」を表しており、持たざる者が巨悪に立ち向かうという一般的なヒーローもののフォーマットが適用されています。

ネイダ(ロディ・パイパー)は仕事を追ってアメリカを旅する肉体労働者であり、最近ではアカデミー賞受賞作『ノマドランド』(2021年)で描かれたものに近いライフスタイルを送っています。またネイダがふらっとLAに現れる様は、JCが好きな西部劇のようでもあります。

何も持たないネイダは最弱にして最強の存在。

社会的ステータスは低いかもしれないが、いざ戦うとなれば何も怖いものがないので、とことん体制とやり合おうとします。

真実を知るのはプロレスより辛い

しかし「無」ではない者もいます。

それがネイダの相棒となるフランク(キース・デヴィッド)であり、彼は家族を守るため肉体労働に精を出す真面目で報われない男です。

いち早く社会のあり様に気付いたネイダが、フランクにサングラスをかけさせようとするが断られ、マッチョ二人がサングラスをかけるかけないで6分間に渡るプロレスを繰り広げるくだりは、本作で必ず言及される名(迷?)場面となっています。

私の初見は日曜洋画劇場で、当時小学生だったんですが、子供の目にもおかしなファイトに映りました。えらい長いな、変だなと。

確か、プロレスの合間にCMが入ったと記憶しているのですが、それほど長かったわけです。

ネタを明かすとプロレスファンのJCが、WWFのスターだったロディ・パイパーのために作った見せ場であり、脚本には「殴り合い」としか書かれていないパートを、スタントコーディネーターのジェフ・イマダが6分間の大ボリュームにしたものでした。

そんなわけでJCがこだわり抜いて作った見せ場というわけでもなさそうなのですが、図らずも本作のテーマの重要な一側面を担うくだりとなっています。

なぜフランクがここまでサングラスをかけることを嫌がるのかという部分が大事なんですね。

フランクだって、この社会が何かおかしいということに薄々気づいています。ただ、はっきり見てしまうとその違和感が動かざる真実になってしまい、もう元の生活には戻れなくなってしまう。

何も持たないネイダは真実に対して愚直であればいいが、家族のあるフランクはこの社会で守るべきものがあり、真実を見ないフリをして生きていたいわけです。

これって、一般大衆の正直な意見ですよね。

苦しいが食べられてはいられるし、これ以上悪くなるリスクはとりたくないので、何となく変革はご遠慮願いたいという。

本来は変革を必要としているであろう労働者階級が、なぜか保守政党を支持する傾向があるという捻じれ現象を、このプロレスが表しているのです。

アナログ時代のマトリックス

で、このサングラスを掛ける掛けないで思い出したのが、『マトリックス』(1999年)でモーフィアスから赤と青のカプセルのどちらを飲むかを迫られるくだりでした。

その意義とは、真実を知ることがすべてではなく、今の生活を漫然と繰り返すという選択肢もあるということです。

本作の製作に当たってJCとユニバーサルの間で揉めたことが二つあって、一つはプロレスラーを主演に起用するということ、もう一つはエイリアンを人喰いにするかどうかでした。

前述した通り、原作では人喰いエイリアンの設定だったのですが、脚色に当たってJCは人喰いという要素を外しました。

ユニバーサルは、主人公が戦う意義が薄れてしまうじゃないかと言って反対したのですが、それこそがJCの狙いだったのです。

人喰いエイリアンが暗躍しているとなれば、人類に戦う以外の選択肢はあり得ません。これに対し、許容可能な支配の中での選択の余地こそが、本作のテーマであるとJCは考えたわけです。

長いものに巻かれて何が悪いということもまた、一人の人間が取り得る選択肢であるという中で、それでも隷属より自立を選択する心こそが重要ではないのかと。

他人に決められ、生かされている人生なんてのは人の道じゃない。貧乏しようが、腹が減ろうが、自分で考えて自分で決めてこそ人間なのである。これがJCの言いたかったことなのでしょう。

これって『マトリックス』におけるサイファーとネオの対比みたいなものですよね。

モーフィアスから「真実はこれだ!」と言って目覚めさせられたはいいが、薄暗い工作船でマズイ飯を食い、いつ敵に襲われるか分からない真実なんてもう嫌だ。嘘でも幻でもいいからマトリックスで平和な夢を見ていたいとしたサイファーの判断もまた、致し方のないものでした。

で、そうした選択の余地があるからこそ、真実に向き合うネオの決意が崇高なものとなったわけです。

本作の、特にフランクの物語も同じくですね。現状に安住する方が楽かもしれないが、知った以上はもうやったるしかないぜ!という。

実はマトリックスの源流はゼイリブにあったんです。

ちなみにフランク役のキース・デヴィッドはジュリアード卒のエリートで、実は労働者階級ではないのですが、これを違和感なく演じた辺りの芸域の広さも評価したくなります。

アクションの質は高くない

かくしてネイダとフランクはエイリアンの拠点にカチ込み、戦闘のプロではないにも関わらず襲い来る兵隊を次々に倒して核心部分へと迫っていくという、80年代らしい実にアバウトな見せ場が始まります。

終盤のアクションには緊張感もスピード感もなく、『ゴースト・オブ・マーズ』(2001年)の記事でも書きましたが、実はJCってアクション演出がクソ下手なんじゃないかと思います。

が、ついに怪電波の発信源であるアンテナに迫ったネイダが、自分の身を犠牲にしてまで革命を成し遂げる場面は燃えましたね。やはり反骨精神こそが本作の柱なのです。

終盤の馴れ馴れしいおっさんは誰だったのか

終盤でよく分からなかったのが、支配階層のパーティに潜入したネイダとフランクに馴れ馴れしく話しかけてきて、わざわざテレビ局の案内などをしてくれるおっさんです。

このおっさんのおかげでネイダはアンテナに辿り着いたわけですが、こいつは一体何者なんだということが鑑賞中には分かりませんでした。

後で調べてみると、ネイダがLAに流れ着いた冒頭で、ホームレス達が暮らすキャンプに居た肉体労働者でした。屋外に設置したテレビを複数人で眺めている中の一人です。

警官隊にキャンプが襲撃された後、どういうわけだが体制側からの仕事を引き受けるようになって、支配階層に入り込めたのだとか。

自身が短期間で成金になったので、ネイダとフランクも同様に何かしらうまくやってこの地位に来たのだろうと勘違いし、仲間として彼らを受け入れてしまったというわけです。

それにしても、冒頭でモブの一人だった人物が何の断りもなしに終盤で再登場するという不意打ちは厳しかったですね。せめてフラッシュバックでも入れてくれればよかったのに。

スポンサーリンク
公認会計士のB級洋画劇場