【凡作】トロン:レガシー_スーパーゼウスみたいなジェフ・ブリッジス(ネタバレあり・感想・解説)

SF・ファンタジー
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(2010年 アメリカ)
美しくパワーアップしたビジュアルに感動しつつも、話のつまらなさは相変わらずだった。ビジュアルへの没入を考慮し、あえてストーリーを単純化しているのだろうが、世界観に興味を持てなくなるレベルの説明不足は勘弁して欲しい。

28年ぶりの続編

本格的にCG(コンピューター・グラフィックス)を用いた世界初の映画『トロン』(1982年)

公開時には大きなヒットにならなかったが、ポップカルチャーへの影響は少なからずあった。

2025年現在のディズニー実写部門のトップであるショーン・ベイリーもまた、少年期に見た『トロン』(1982年)に影響された一人であり、ディズニーと契約したベイリーはすぐさま続編の製作に着手した。

スタンフォード大学で機械工学を、コロンビア大学で建築学を学んだインテリにして、CF監督でもあったジョセフ・コシンスキーが監督に就任し、人気テレビシリーズ『LOST』のアダム・ホロウィッツとエドワード・キッツィスが脚本を執筆した。

製作費は堂々の1億7千万ドル。これは同年の大ヒット作『インセプション』(2010年)をも上回る金額であり、ディズニーにとっての勝負作だったことが伺える。

映画に対する賛否は割れたが全世界で4億ドル稼ぎ、商業的には成功した。

すごいビジュアルと陳腐なストーリー

前作にて元同僚デリンジャーによる盗作を暴き、エンコム社の社長に就任したケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)。

こうしてあらためてふり返ってみるとちっちゃい話と思わなくもないが、兎にも角にもその後のケヴィンは辣腕を発揮し、エンコム社を全米トップのソフトウェア会社へと成長させた。

可愛い一人息子にも恵まれ我が世の春を謳歌していたケヴィンだが、その絶頂の最中である1989年に突如失踪。

大企業トップの失踪に当時の社会は騒然となったが、そもそも変わり者だったこともあり「あいつならそういうことをしかねない」とでも思われたのか、そのうち誰も探さなくなった。

20年後、エンコム社はケヴィンの元同僚にして監視ソフト「トロン」の生みの親でもあるアラン(ブルース・ボックスライトナー)や、かつてのライバルの息子エドワード・デリンジャー(キリアン・マーフィー)らが役員入りし、全米トップ企業の地位を維持し続けている。

これはもうケヴィンの”レガシー”ではなく、現任役員たちの努力の賜物と言えなくもないが、そんな社の様子を複雑な思いで見つめる人物がいる。

彼はケヴィン・フリンの一人息子であるサム(ギャレット・ヘドランド)。

サムはエンコム社の筆頭株主ではあるが経営には参加せず、しかしちょいちょい嫌がらせにはやってくる。

何ともはた迷惑な人物なのだが、それもこれも突如失踪した父親への複雑な思いゆえのこと。

ある日も、会社の虎の子である新OSのコードを全世界に無料公開して経営に大損害を与えるのだが(いくら筆頭株主でも許されない行為だろう)、その帰り道にアランから「昔のポケベルに親父さんからのメッセージが届いた」との知らせを受ける。

そんな大事な情報は警察に持って行けよと思うところだが、兎にも角にもサムはポケベルで示されたゲームセンターへと向かう。

そこは1982年に会社を干されていた父ケヴィンが経営していたゲーセンであり、かつてケヴィンをコンピューター内部世界「グリッド」に引き込んだ物質電子変換装置の起動により、サムもまたグリッドへと送り込まれる。

現実世界への帰還を目指すサムの冒険が本作のメイン・プロットであるが、これは1982年のオリジナルを踏襲したものだ。

体裁的には続編ではあるが、前作と同じ話の意図的な焼き直しという『死霊のはらわたⅡ』(1987年)や『エスケープ・フロム・LA』(1996年)と同じ形式をとっている。

ストーリーをあえて陳腐化させてでも製作陣が見せたかったのは、28年間で大きな進化を遂げたビジュアルだ。

建築学修士であるジョセフ・コシンスキー監督は、デザインから本作にアプローチしたという。

美しさと合理性が同居したグリッドの世界のデザインは圧巻の一言で、ダフトパンクによる電子音楽とも相まって、素晴らしい映像体験をもたらしてくれる。

ダサかっこよさが味だったオリジナルからは一転、すべてのカットがかっこよく決まっており、前作からアップデートされたディスク・バトルやライトサイクル・バトルの迫力には目を奪われた。

盛り上がらない親子の物語

が、面白いのは前半まで。

カッコいい映像にも目が慣れてしまい、後半ではすっかり飽きてしまうのだ。

後に『トップガン:マーヴェリック』(2019年)を大ヒットさせるコシンスキー監督も、デビュー作時点では演出に固さがあり、連続活劇としての躍動感を生み出せていない。

「サムが頼りにしようとしたレジスタンスリーダーは敵に寝返っていた、」「強敵リンズラーはかつての味方トロンだった」、「父のものと思われたポケベルメッセージは敵の罠だった」といった脚本上の仕掛けが、サプライズとして有効に機能していない。

また数少ない前作との相違点である親子の物語も機能していない。

グリッドに取り込まれたサムは、失踪した当時のまんまの父ケヴィンと再会する(実はケヴィンが開発したプログラム「クルー2.0」)。

父の突然の失踪がトラウマとなっているサムにとっては、思いがけない形での親子再会なのだが、まったくと言っていいほど感情を表現しないので、この場面にあるべき驚きが薄れている。

その後はスーパーゼウスのような見た目になった本物の父と再会するのだが、やはりここでも感情を表現しない。

父ケヴィン曰く、息子のことを思わない日はなかったが、現実世界への侵攻をも視野に入れたクルー2.0から隠れる必要があり、戻るに戻れなかったとのこと。

20年ものすれ違いの中で積もる感情もあるだろうに、この親子は20年来の確執も再会の喜びも表現しない。

以降はただの旅の同行者程度の扱いとなるのだが、これではケヴィンの息子を主人公にした意味がない。

親子を主人公にしたのは『スターウォーズ』(1977年)からの影響であることは明らかだし、若い姿のジェフ・ブリッジスがダースベイダーの役割を、老いた姿のジェフ・ブリッジスがオビ・ワンの役割を果たすという、企画段階では面白いコンセプトだったのだと思う。

しかし親子のドラマを描き切れていないために、この面白さを映画に落とし込めていない。

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