【凡作】猿の惑星:聖戦記_迷走するシーザーと脚本(ネタバレあり・感想・解説)

SF・ファンタジー
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(2017年 アメリカ)
リーダーの責任を放棄するシーザーと、反撃されたくてやってるとしか思えない人間の軍隊の泥仕合。素晴らしいクォリティで来ていた新シリーズも、3作目でコケた。

感想

戦闘場面は驚異的な完成度

開始早々戦闘場面から始まるが、これがものすごい迫力で一気に引き込まれた。

前作から2年後、シーザーは戦争を仕掛けた悪しき指導者として米軍から命を狙われており、森の奥深くでの潜伏生活を余儀なくされている。

あたかもそれはアフガンの山岳地帯に逃げ込んでいたウサマ・ビン・ラディンのようだが、観客が感情移入すべきヒーローにかつての国家の敵を投影するあたりに、アメリカ映画界の懐の広さがある。

ついに拠点に迫ってきた特殊部隊と猿との戦闘は熾烈を極め、大勢の犠牲を出す。そこには娯楽映画にありがちなヒロイズムはなく、敵にとっても味方にとっても戦争とは地獄であることを強く印象付ける。

猿達を表現するVFXはさらにパワーアップ。本作の猿達はもちろんCGなのだが、水に濡れた毛の表現などは驚異のレベルに達しており、もはやそこに実在するようにしか見えない。

本作のビジュアルは圧巻のレベルに達している。

ただし、作品自体が語るべき物語を失ってしまったという問題までは解決できなかったようだが。

迷走する脚本とシーザー

第一作『創世記』(2011年)はオリジナルシリーズの『猿の惑星 征服』(1972年)に、第二作『新世紀』(2014年)は『最後の猿の惑星』(1973年)に相当する。

すなわち、オリジナルシリーズが完結したところからスタートするのが本作『聖戦記』であり、監督と脚本家たちは語るべきテーマを必死に探したようだ。

その結果辿り着いたのが、指導者としての立場と個人的な復讐心との間で逡巡するシーザーの物語だったが、これがあまり面白くない。

マカロー大佐(ウディ・ハレルソン)に妻子を殺されたシーザーは、群れから離れて大佐を追うことにする。『創世記』の猿山時代からの仲であるロケットとモーリス、そしてゴリラのルカは、シーザーを放っておけないとしてお供を買って出る。

こうして始まる追跡劇は往年の西部劇を思わせ、人間の少女を加えることでクリント・イーストウッド主演の『アウトロー』(1976年)のような疑似家族的な関係へと発展していく。

物語は、実の家族を失って半ば自暴自棄になっていたシーザーが、新たな家族との絆によって再生するかのような方向性で進んでいくのだが、中盤にて突然の方向転換を迎える。シーザーが敵に捕まり、強制的に元の群れに引き戻されるのだ。

前半の流れであれば群れに戻るという判断はシーザー自らが下すべきだろうと思うのだが、突如として彼の思索が打ち切られるので、前半と後半ではドラマの断絶を感じた。

捕虜として憎き大佐と対面したシーザーが強がって見せたかと思えば、リーダーとしてあまりに無力な現在の自分に落胆したりと、どうにも感情が一定しない。

終盤における群れの解放と反撃もシーザー自身の活躍によるものではないため、彼が一体何を乗り越えたのかも判然としない。肝心のドラマがうまく着地しないのである。

1968年の第一作より、このシリーズは一貫して現実社会の写し鏡として猿の惑星を扱ってきたのだが、本作は初めてその路線をやめて、シーザー個人にスポットを当てた。これが失敗だったように思う。

人間が驚異的に馬鹿

そして猿軍団に反撃の隙を与えるためか、人間が壮絶に馬鹿という点もがっかりだった。

強敵である猿達を一か所にまとめて収容し、夜間の監視はたったの一人。その唯一の監視兵も挑発に負けて迂闊にゲート内に入ってしまうなど、負けたくてやってるようにしか見えない。

人類を絶滅寸前にまで追い込んだ猿達が相手なのだから、もっと真剣にやってもらいたい。 そして陣地のど真ん中にはデカデカと火気厳禁と書かれたガスタンクが。どうぞやっちゃってください状態のガスタンクにはさすがに萎えた。

≪猿の惑星≫
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