(1983年 アメリカ)
テクノロジーを題材としたSFサスペンスを、40年後の未来の目で見るとなかなかキツイものがある。当時のハイテクはレトロとなり、高校生たちのドラマも牧歌的だ。ただしAIの描写には予見的な部分もあり、いまだからこそ分かる良さもあった。

感想
2か月ぶりのレビュー投稿。
あちらのサイトは最近頻繁に更新しているのだけれど、その分、旧作を見返す時間がなくなってしまい、こちらはしばらく放置の状態が続いていた。
ただしアクセス数とGoogle広告の結果には両サイトで大差はない。労力と成果とは往々にして結び付かないものだ。
で、本作『ウォー・ゲーム』である。
むか~し、20年以上前に地上波の深夜枠で一度だけ見た覚えがあるんだけど、あんまりハマらず、以降はずっと気にしてこなかった映画。
Amazonプライムのまもなく配信終了欄に入っていたので駆け込みで見たけど、やはりハマらなかった。
高校生が最新ゲームをタダでプレーするためゲーム会社に不正アクセスを試みるのだが、つながった先は米軍のミサイル管制を一手に握るAIだった。
高校生とAIは遊び半分で全面世界戦争シミュレーションをプレーするのだが、リアルとシミュレーションの境目のないAIが本当に核戦争を起こそうとするというのが、ざっくりとしたあらすじ。
主人公は高校生というのが80年代風味だ。
当時は若者の動員こそがヒットの鍵であり、青春映画ならずとも多くの映画の主人公が高校生だった(『若き勇者たち』『エルム街の悪夢』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『アイアン・イーグル』『スターファイター』『ブロブ宇宙からの不明物体』etc…)。
こうした時代には若手俳優が世に出やすく、トム・クルーズもジョニー・デップもキアヌ・リーブスも、みんな80年代にデビューを果たしている。
翻って現代は中高年の客層メインなので、若手スターが育ちづらい環境にある。
本作の主演は、後に『フェリスはある朝突然に』(1986年)でブレイクするマシュー・ブロデリック。
相手役は、これまた後に『ブレックファスト・クラブ』(1985年)でブレイクするアリー・シーディで、当時としては青田買いに成功したキャスティングだったと言えよう。
なおマシュー・ブロデリックは本作の脚本家ウォルター・F・パークスの『飛べ、バージル/プロジェクトX』(1987年)でも、アリー・シーディは本作の監督ジョン・バダムの『ショート・サーキット』(1986年)でも主演に起用されている。
ただしこの二人が現代の目で見て魅力的かというと、そうでもない。
80年代の青春映画でよく見かける「普通の人に見える美男美女カップル」で、それ以上のキャラ付けが皆無なのだ。
ドラマの深掘りのようなものが求められない時代だったので、「郊外の平凡な家庭で育った、特に悩みのない若者」程度のキャラ造形でも映画は成立したのだ。
これはこれで凄いことだと思う。
まどろっこしいドラマがないことの反動か、映画はものすごい勢いで展開していく。
- 主人公が意図せず全面核戦争の危機を招いてしまう
- ソ連のスパイと疑われて当局に拘束される
- AIの生みの親と共に危機を解決する
物語は見事なまでの3幕構成となっており、娯楽作の型にきっちり当てはめられて作られた映画だと言える。
なので決してつまらなくはないのだが、そこはかとなく漂ってくる既製品感・・・
監督は80年代随一の職人監督として知られるジョン・バダム。
『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)の大ヒットを皮切りに、武装ヘリがLA上空で空中戦を繰り広げる『ブルーサンダー』(1983年)、難病を抱えながら自転車レースに挑む兄弟を描いた『アメリカン・フライヤーズ』(1985年)、刑事が張り込み対象に恋をしてしまう『張り込み』(1987年)と、よく言えば堅実な、悪く言えば主張のまったくない作風で鳴らした御大である。
もともと本作には『ビバリーヒルズ・コップ』(1984年)や『ミッドナイト・ラン』(1988年)で知られるマーティン・ブレストが監督として起用されていたのだが、数週間撮影したところでプロデューサーと対立して降板させられた。
その後に起用されたのがバダムだったのだが、この経緯を踏まえるに「御しやすい監督が欲しい」というプロデューサー側の人選基準があったように思う。
本作においてもまったく癖のない演出は健在であり、仮に「リチャード・ドナー監督作品です」と言われてもまったく違和感がない。
ブレストは重めの演出をしていたらしいのだが、バダムはスタジオの意を汲んで軽快な要素を加えたとされる。さすがはハリウッドの職人さん。
が、この軽快さこそが本作の印象を悪くする原因ともなっている。
厳密にいえば、公開当時は世界中が共有していた「いつか全面核戦争が起こる」という現実世界の恐怖心までを加味して成り立っていたことが、時代を経てその前提が成立しなくなると、ただのジュブナイルSFになってしまったと言うべきか。
1981年生まれの私は冷戦下の状況をギリ知っている世代だが、当時の世界は割と真剣に全面核戦争の危機に怯えていた。
その状況下でこのような題材を扱う場合、意識的に軽快な要素を組み込んでいかないと観客が娯楽と受け取らなくなる危険があったであろうことは、何となく想像ができる。
一方現代はというと、世界はまったく平和にはなっていないものの、とりあえず大国同士の全面核戦争は非現実のものとなっている。
この状況下で本作を見ると、「もっと焦らないと観客に緊張感が伝わってこないから!」となってしまう。
この世情の変化は如何ともしがたかった。
加えて、当時は最新だったテクノロジー描写が今ではレトロになってしまったことも、作品から受ける印象を一変させる原因となっている。これがテクノロジーを扱う作品の難しさだ。
主人公の子供部屋にずらっと並んで機械は、当時としては「なんか分からんけどスゲェ」だったのだろうけど、現代の目で見るとアナログにも程がある。
それはAIも同じくで、昔のコンピュータ描写にありがちな、何に使うのか分からない電飾だらけの筐体がなんともチープだ。
そして国防を一手に担っているAIのバックドアのパスワードが開発者の息子の名前という、類推可能にも程がある付番にもずっこけそうになった。
『コマンドー』(1985年)の武器庫のパスワードが2桁の数字だった時代の話なので、これを追及するのも酷っちゃ酷だが。
一方、現代の目で見るからこそ良さに気付けた点もある。
世界を滅ぼそうとするAIとくれば、『地球爆破作戦』(1970年)のコロッサスや『ターミネーター』(1984年)のスカイネットのように、人類を敵と見做す好戦的なものが相場だった時代に、本作のAIジョシュアは純粋無垢な存在とされている。
この点、AIの利用が一般的となった現時点では、本作の描写の方が近い。
仕事でAI導入する際にシステム会社から言われたのは、「AIはめちゃくちゃ優秀だけど、世間知らずで融通の利かない子供だと思ってください」だった。
まさに本作のジョシュアである。
AIに学習させることが結論となるというクライマックスも予見的であり、今だからこそ分かる良さもある。

