(2014年 アメリカ)
期待以上に日本の怪獣映画の特徴が残された作品であり、実はゴジラの設定には大きな改変が加えられているものの、そのスピリットが継承されているため、頭に東宝印が浮かんでくるほどの仕上がりとなっています。ゴジラの映画化企画でこれ以上のものは望めないのではないでしょうか。
1999年、日本の原発に勤務していたアメリカ人学者のジョーは、原発事故により目の前で妻のサンドラを失った。ジョーはただの原発事故ではないと考え、15年間一人で真相を追っていたが、閉鎖された原発事故跡地に潜入したジョーは、巨大な繭を目の当たりにする。
1975年イギリス出身のギャレス・エドワーズは、幼少期に見た『スター・ウォーズ』の影響で映画界への進路を決め、VFXクリエイターとしてキャリアをスタートさせました。
2010年に2名の俳優と5名のスタッフ、50万ドルの製作費で撮った『モンスターズ/地球外生命体』が超低予算ながら絶賛されたことから以後は監督業をメインにし、本作『ゴジラ』が初の大作となりました。製作したレジェンダリー・ピクチャーズは、自腹でDVD全巻ボックスを買う程のゴジラファンだったエドワーズに、続編2本も監督させることにしていました。
本作の成功後には更なるビッグプロジェクトからのオファーも舞い込み、2015年には『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を監督し、年間興行成績No.1の大ヒットとなりました。
ただし、エドワーズにとって『ローグ・ワン』は成功ではなく挫折の経験でした。エドワードが仕上げたファーストカットを気に入らなかったディズニーは彼を途中降板させ、公開まで半年を切った時期に、代打のトニー・ギルロイに本編の半分の撮り直しをさせるという決定を下したのです。『ローグ・ワン』のクレジット上の監督はエドワードではあるものの、実質的にはトニー・ギルロイの映画でした。
トニー・ギルロイは、弟の双子ダン・ギルロイとジョン・ギルロイも呼び寄せて大車輪でプロダクションに臨み、厳しいスケジュールを物ともせずに作品を救ったのですが、ギルロイの成功が輝かしいほど、エドワーズの失敗の影は濃くなります。
『ローグ・ワン』の降板劇は、大作であってもインディーズスタイルで撮影するというエドワーズの演出スタイルが最悪の形で裏目に出た例でした。この挫折の後、エドワーズは元のインディーズ映画界に戻ることを決意し、内定していた『ゴジラ』の続編からも去っていったのでした。
本作は、デヴィッド・キャラハムが書いた第一稿をベテランのデヴィッド・S・ゴイヤーが書き直し、マックス・ボレンスタインがいったんの決定稿を仕上げました。その後、ドリュー・ピアースがボレンスタインの決定稿をさらに磨き、フランク・ダラボンが追加部分を執筆しました。
身長108m、体重9万トンという、ゴジラ史上でも最大の巨体設定。2億7000万年前のペルム紀に地球上の生態系の頂点に立っていた種族だが、ペルム紀末の大絶滅で大半の個体は死滅し、僅かな個体が地下で生き延びていた。冷戦時代における南太平洋での核実験は、実は実験ではなく、ゴジラの存在に気付いた米ソが核攻撃をして葬ろうとしたものであるという、驚愕の戦後史が判明する。
放射能怪獣ではないし、人類の核実験により太古からの眠りを覚まされ人類に怒るという設定までを外され、実は1954年の第一作の基本設定を根底から覆す解釈がなされているものの、それでもちゃんとゴジラになっているのだから凄い。
ゴジラと同じくペルム紀に生息していた巨大生物。ゴジラの体内に卵を産み付け、その卵は最終的に宿主であるゴジラを殺してしまう。放射能を摂取するという本来のゴジラの設定は、こちらが引き継いでいる。
オスとメスのつがいが登場し、オスは体が小さいが飛行能力を有している。また電磁パルスを放つ習性があり、人類のテクノロジーを無力化させることができる。
日本の怪獣映画は怪獣を決して克服することのできない脅威として描いているのに対して、アメリカのモンスター映画はモンスターを強力だが駆除は可能である対象として描いています。
この点、ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』(1998年)は、日本のゴジラをモチーフにしながらも、アメリカのモンスター映画のスタイルを適用してしまったために失敗しました。
怪獣映画とモンスター映画には双方に一長一短があって、日本の怪獣映画では怪獣が非常に存在感を発揮するという長所がある一方で、人類側がひたすらに無力なので面白みのある物語を組み立てることができず、ただ怪獣が街を破壊するだけの映画になってしまう傾向があります。
神格化されている『ゴジラ』第一作目(1954年)にしても、ゴジラの存在感は素晴らしい一方で、話は大して面白くありません。
アメリカのモンスター映画はその逆。モンスターの魅力は怪獣に及ばないものの、人類主体の中身のあるドラマを作りやすくなっています。
この点、本作は日本の怪獣映画とアメリカのモンスター映画を見事に折衷した企画とすることで、双方の良いとこ取りを狙っています。
駆除可能な生物として物語の進行を担うのはもっぱらムートーであり、オス・メスのつがいが登場したり、卵を産み付けたりと、生物としての考察がなされるのもムートーです。その姿かたちは『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)のモンスターを彷彿とさせ、いかにもアメリカ人がデザインした怪獣というルックスとなっています。当初、米軍が追っているのもムートーです。
他方、ゴジラに関しては恐らく意図的に説明が排除されており、こちらは人類による攻撃を一切受け付けず、それどころか人類の存在に対してまるで関心を払っておらず、ムートーを追いかけてたまたまハワイやサンフランシスコに上陸しただけという設定となっています。
デザインも、偏平足にダラんと垂らした尻尾と生物学的なリアリティを放棄して、思いっきり東宝のゴジラの特徴を反映したものとされています。
日本の怪獣映画とアメリカのモンスター映画の折衷を狙った本企画の発想は凄いなと思ったし、ゴジラとムートーという二大怪獣を登場させることで、見事にそれを実現してみせた構成力の高さにも唸らされました。
前述した通り、本作には優秀な脚本家が多く関わっているのですが、その期待値に見合うだけの良い仕事をしているように感じます。
出世作『モンスターズ/地球外生命体』(2010年)では、後景により怪獣の存在する世界観を提示し、その世界観によって直接的に怪獣を見せなくても怪獣の存在感を引き立てていたエドワーズですが、300倍以上の製作費をかけた本作でも基本的なアプローチは変えていません。
フィリピンの鉱山、破壊されたホノルル市街地、ムートーの電磁パルスにより墜落した旅客機、及び、墜落事故によって引き起こされた交通渋滞と、インパクトある後景の数々が提示されます。
怪獣の存在する世界では何が起こるのかという点を追及し、象徴的なビジュアルでこれを見せることで、直接的に怪獣を描写しなくても、その存在を観客に感じさせることに成功しています。
世界観と併せて、人類という種の存続が脅かされているという終末観・絶望感の醸成にも成功しています。
これは放射能という重いテーマを果敢に扱ったことの成果ではあるし、目の前にいるのは絶対に勝てない相手なんだけど、それでも何かしなけりゃならないんだというアメリカ軍の苦悩や絶望感が描けています。
象徴的だったのは、ムートーに奪われた核弾頭を取り戻すためにフォード以下の爆弾処理チームが怪獣達の暴れ回るサンフランシスコ市街地にHALOジャンプ(高高度降下低高度開傘)をやる場面。
輸送機内のお通夜みたいな空気や、いよいよハッチが開く時の「多分死ぬんだろうけど、ここまで来たらやるしかない」と兵士達が自分を奮い立たせているような場の雰囲気。また、普通の監督であれば飛び降りる瞬間や降下中には勇壮なテーマ曲を流すであろうところを、『2001年宇宙の旅』(1968年)のモノリスのような無機的な音をBGMにしているところなど、兵士を主人公にしながらも英雄譚的なアプローチを放棄しています。
ハリウッド映画でこんなやり方をするのかと驚いたし、日本の題材をイギリス人監督に撮らせたという人選の意義は、こんなところに出ていると思います。
本作の経過は徹底的に人間視点で描かれるのですが、視点の移動や切り替えが神がかっています。
例えばハワイでのゴジラの上陸場面。上陸時にゴジラが起こした津波に巻き込まれた一般市民視点で当初の混乱状態が描かれるのですが、そんな中でふとビルの屋上に目をやるとそこには軍隊が待機しており、その軍隊が照明弾を上げると、ゴジラの巨体が暗闇に浮かびあがります。
ゴジラに対して軍隊は一斉発砲。ここから視点は一般の被災者から軍隊に移るのですが、この切り替えのうまさには舌を巻きました。
同じく、ついに怪獣に上陸されたサンフランシスコ市街地において、エルが空を眺めるとパラシュートで降下してくるパイロットが見えるのですが、そのエルの背後では、パイロットが脱出した戦闘機がビルに衝突して大爆発を起こします。
まず劇中人物と観客の視点をパラシュートに集中させて何事かと思わせておいて、物凄い爆発をドカンとかますという見せ方のうまさですね。
以上の通り、怪獣映画としては史上最高レベルともいえる完成度であり、ほとんどケチをつける余地すらなかったのですが、人間ドラマが不足している点がちょっと気になりました。
別に怪獣映画に人間ドラマなんて期待していないので、作品にとっての欠点になっているとまでは言わないのですが、母の死の受け止め方を巡るジョーとフォードの関係や、被爆二世でありながら米軍と行動を共にする芹沢博士など、ネタふりだけあったのに本編中で落とされていないドラマがいくつかあった点はちょっと不満でした。
加えて、サンフランシスコで被災するエルとサムに至ってはほとんど居なくても良いような状態となっており、群像劇を狙いながらも、途中で諦めたような形跡があった点がちょっと気持ち悪かったです。
渡辺謙によると、ファーストカットは4時間もあったため、全体のバランスを考えてドラマの大部分がカットされたとのことでした。