(2000年 アメリカ)
透明人間が性欲や個人的に嫌いな奴への攻撃に走るというゲスな展開はバーホーベンっぽくて良かったのですが、受けて立つ側のキャラが薄すぎてエゴvsエゴの醜くも激しい衝突になりえておらず、バーホーベンの割にはアッサリとした映画でした。普段ならもっと凄いのを作る監督なんですが、今回は調子悪かったようです。
天才科学者のセバスチャン(ケヴィン・ベーコン)は、チームと共に国防総省の極秘プロジェクトに参加している。その内容は生物の透明化であり、すでに透明化技術は確立しているものの、復元ができず行き詰っていた。ある日、セバスチャンは天才的な閃きから復元プロセスを思い付き、動物実験にも成功したことから、今度は自らを被検体にして未承認の人体実験を行うことにする。
1938年オランダ出身。名門ライデン大学で数学と物理学を学んだという映画監督としては変わり種で、オランダ海軍従軍中にドキュメンタリー制作に関わりました。
1960年代にテレビ界入りし、『Wat Zien Ik?』(1971年)で映画監督デビュー。『ルトガー・ハウアー/危険な愛』(1973年)でアカデミー映画賞ノミネート、『娼婦ケティ』(1975年)がオランダで大ヒット、『女王陛下の戦士』(1977年)でゴールデングローブ賞ノミネートと短期間で国際的な評価を受けました。
『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』(1985年)でハリウッド進出。『ロボコップ』(1987年)でヒットメーカーの仲間入りをし、そのロボコップの主演候補の一人として接点のあったアーノルド・シュワルツェネッガーからの依頼で『トータル・リコール』(1990年)を監督して大ヒット。
そのプロデューサーのマリオ・カサールの元で作った『氷の微笑』(1992年)が『トータル・リコール』をも上回る大ヒットとなったことから、ハリウッドのトップディレクターの一人となりました。
しかし、ピークを打った後にあったのは茨の道でした。マリオ・カサールと三度組んだ『ショーガール』(1995年)は興行的にも批評的にも失敗し、ラジー賞監督賞を受賞。バーホーベン×シュワルツェネッガー×マリオ・カサールのゴールデントリオの再結集作になるはずだった歴史大作”Crusade”は製作が難航した後に、カサールが経営するカロルコ社の倒産とシュワの心臓手術によって企画が潰れました。
VFXに史上最高額の予算を投入した『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年)は業界人からの評価こそ高かったものの(タランティーノは年間ベスト映画に選んだ)、プロパガンダ映画のパロディという演出意図を一般客から理解されず、本物のプロパガンダ映画だと勘違いされて興行的に苦戦。
本作『インビジブル』(2000年)は興行的にはまぁまぁの結果を残せたもののスタジオシステムとの確執が決定的なものとなり、オランダへ帰国しました。
本作の脚本を書いたのは1992年に脚本家としての勉強を終えたばかりの若手アンドリュー・W・マーロウでした。
当時のマーロウはハリソン・フォード主演の大ヒット作『エアフォース・ワン』(1997年)の脚本を書いたことで注目されており、その次に書いた『エンド・オブ・デイズ』(1999年)は大スター・アーノルド・シュワルツェネッガー主演。本作を含め、1億ドルバジェットの大作を3連続で執筆したということになります。
ただし『エンド・オブ・デイズ』と本作が興行的にも批評的にも失敗したことから、以降は映画でのクレジットを目にしなくなり、テレビ界へと活躍の場を移しています。
1958年フィラデルフィア出身。『フットルース』(1984年)の主演でブレイク。以降はジャンルを問わず異様に多くの映画に出演するようになり、「ハリウッドの全員がベーコンの共演者か、共演者の共演者」という状況が出現。ケヴィン・ベーコンを中心にして俳優との距離を測る「ケヴィン・ベーコン数」なるものまでが作られました。
本作のセバスチャン役には他にガイ・ピアースやエドワード・ノートンも候補に挙がっていたのですが、もっとも熱心だったベーコンに決定しました。
ベーコンは透明になった後にもボディダブルに任せることはなく、合成用の全身タイツを自ら着用して撮影に臨みました。その様子はDVD等のメイキングで見ることができるのですが、有名俳優がこんなみっともない恰好をして撮影し、周囲も笑わずに対応していることには尊敬の念を覚えます。
本作は2000年8月2日に公開され、ジェリー・ブラッカイマー製作の『コヨーテ・アグリー』(2000年)とクリント・イーストウッド監督の『スペース・カウボーイ』(2000年)を抑えてNo.1を記録。翌週にも際立ったライバルが公開されなかったことからV2を達成しました。
しかし3週目にして7位にまで急降下し、4週目にはトップ10圏外へ。全米トータルグロスは7320万ドルで、9500万ドルという製作費を考えると振るわない結果に終わりました。
世界マーケットではやや持ち直したのですが、それでも全世界トータルグロスは1億9021万ドルで年間興行成績第22位という微妙な結果でした。
透明人間の映画と言われると、どう透明化させるのかという点に知恵を使うものですが、本作においては透明化はすでに成功しており、透明化した被検体を元に戻す技術がないことが問題であるという段階から描かれています。
デヴィッド・クローネンバーグ監督の『ザ・フライ』(1986年)もそうでしたが、コア技術はすでに完成しており、問題はその他の部分にあるという設定は観客に余計な疑問を抱かせずに済むので秀逸です。そういえば、バーホーベンもクローネンバーグも名門大学の理系学部で学んでいますね。
細かい点では、透明化すると瞼も透明になるので遮光ができず眩しがるという点は、目から鱗でした。
作劇上の設定もよくできています。動物実験に成功した主人公セバスチャン(ケヴィン・ベーコン)は、功を焦って雇い主である軍の許可なしに自分自身を使っての人体実験を行うのですが、無許可の実験だったためにセバスチャン暴走後にも研究チームは組織を頼ることができず、公安などが出動しない案件になるという点はよく考えられています。
いくら相手が透明人間とは言え、軍が本気で捜索すればすぐに見つかるはずですからね。その点をうまくかわした設定でした。
VFXの使いこなし方にも定評のあるバーホーベンは、本作で一つの頂点を迎えました。
人間が透明化していくプロセスはかつてないリアリティで描かれており、皮膚が透明化することで筋肉や毛細血管が露になり、それに続けて臓器が見えて、骨格が見えてという描写には驚かされました。
透明化後には煙や水滴によって透明人間の輪郭が浮かび上がる場面が素晴らしく、見た目の美しさと、サスペンスにおけるサプライズの両面で高い効果を発揮していました。
かくして、考え抜かれた設定と見事なVFXによりクリエイトされた透明人間なのですが、その活動内容は驚くほど素直で、これが1億ドルバジェットの大作でやるような話かと良くも悪くも驚かされました。
H・G・ウェルズ著『透明人間』(1897年)やジェームズ・ホエール監督の『透明人間』(1933年)では研究への異常な執念の結果、自身の研究結果に囚われることになったマッド・サイエンティストとして描かれることの多かった透明人間ですが、本作ではそんな文学性ある解釈がほとんど切り捨てられており、透明化は男のドリームという方向性で作られています。
もし透明人間になったらやりたいことで男性にアンケートをとると、①女湯に入ること、②嫌いな奴に意地悪すること、③モノを盗むこと、が上位を占めると思われますが、セバスチャンはうち①と②を全力でやりにいきます。すでにポルシェを買えるくらい金には困っていなかったので、③はどうでも良かったようです。
居眠り中の同僚女性のおっぱいを触ったり、エロい隣人宅に忍び込んで風呂上りを襲ったりと、しずかちゃん家のお風呂に潜入するのび太がそのまんま成長したようなことを実践するセバスチャン。繰り返しますが1億ドルバジェットの大作でこんなに素直なものを見られるとはと驚きました。
そして、まだ未練のある元カノ・リンダ(エリザベス・シュー)が、よりにもよって凡才と見下しているマット(ジョシュ・ブローリン)と付き合っていることが分かり、怒り狂うセバスチャン。
ここからセバスチャンは同僚全員を殺害するという凶行に及ぶのですが、大嫌いな奴をぶっ殺してやりたいという純粋な感情がベースとなっていることが印象的でした。
ただし、セバスチャン以外のキャラにゲスな魅力がないことが、作品のリミッターになっています。
バーホーベンの映画では善悪を超越した欲望のぶつかり合いが常に描かれており、作劇上善とされている側にも不純な動機があったり、悪党側にも理解可能な欲望があったりして、エゴとエゴがぶつかり合う生々しく激しいやり取りこそが見せ場なのですが、残念なことに本作にはそうした要素が希薄です。
人間らしい欲望を感じられるのは透明化してやりたい放題のセバスチャンだけで、他の登場人物がただ襲われるだけの被害者に徹しているためです。
リンダとマットのカップルなんて勿体なくて、なぜ彼らを中途半端な善人として描いたのかが理解できません。 学問での天才ぶりを除くとすべてにおいて欠陥人間であるセバスチャンを内心では見下しており、コミュ障のセバスチャンの成果をいつか横取りしようと考えているゲスカップルとして描いていれば面白かったのに。