【凡作】ブロンコ・ビリー_セクハラ・パワハラのオンパレード(ネタバレあり・感想・解説)

その他
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(1980年 アメリカ)
かつてイーストウッドが量産していたライト系の娯楽作だけど、家父長制的なイーストウッドの価値観は、現代目線では少々厳しい。めちゃくちゃ面白い展開があるわけでもなく、最後までノリ切れずに終わってしまった。

感想

午後ローで放送されていたのを録画して鑑賞。

70年代から80年代にかけてのイーストウッドは超多作で全部追いかけきれていないので、ちょいちょいイーストウッド特集をして『ダーティハリー』(1971年)以外のイーストウッド作品を放送してくれる午後ローさんには感謝しかない。

全米公開時にはさほど大きなヒットにはならず(低予算なので黒字ではあったが)、ヒロイン役のソンドラ・ロックが第一回ラジー賞で最低女優賞にノミネートされるなど、あんまり良い話題のない作品。

再評価される向きもあるようだが、個人的にはイマイチに感じた。

基本フォーマットは西部劇の流用で、『アウトロー』(1975年)で描かれたような疑似的な家族関係、主人公を中心とした家父長制的なコミュニティの様子が描かれる。

毎回決まったメンバーで映画を製作するイーストウッド自身の組織観・人材観を反映したものであり(多分・・・)、映画製作において抱える葛藤をそのまま置き換えることができるので、イーストウッドにとっては扱いやすい題材なのだろう。

イーストウッド自身、本作を非常に気に入っていると発言している(なので興行的にパッとしなかったことには不満を感じている様子)。

ワイルド・ウエスト・ショーの一座を率いて中西部をドサ巡りしているブロンコ・ビリー(クリント・イーストウッド)だが、都会育ちの富豪令嬢アントワネット・リリー(ソンドラ・ロック)をショーの相手役に迎えたことでひと悶着もふた悶着もあるというのが、ざっくりとしたあらすじ。

1980年代当時、すでに下火となっていた西部劇を、ワイルド・ウエスト・ショー(西部開拓時代のカウボーイの妙技を再現したヴォードヴィル・ショー)という題材をとって現代に復活させたのがこの企画の骨子であり、時代遅れの堅物男の生きづらさや、それでも仲間たちに対する責任をまっとうしようとする男の背中が描かれる。

さながら西部の寅さんという風情なのだが、製作時点ですでに時代遅れになっていた人種のドラマを、製作から44年後の2024年現在に鑑賞するという捻じれた構造での鑑賞だったので、私にはいろいろ伝わりづらい部分が多かった。

加えて、イーストウッドの家族観・人生観が極めて特殊であることも、作品への理解を困難にする要因となっている。

相手役のソンドラ・ロックは、70年代から80年代にかけてのイーストウッド作品の常連だった人。実に6作品でイーストウッドの相手役を努めていた。

チャールズ・ブロンソン作品におけるジル・アイアランドのような存在であるが、ブロンソンとアイアランドが法的に正式な夫婦だったのに対して、ロックはイーストウッドの愛人だったというのが凄い。

愛人関係を隠さないばかりか、自分のプロジェクトに堂々と参加させるというネジの飛んだ公私混同ぶり。そして正妻との間の子供(カイルとアリソン)と共演までさせているのだから、当時のイーストウッドの倫理観はぶっ壊れていたとしか言いようがない。

1980年代時点ですでに時代遅れだった西部の価値観、1980年代と2020年代との間の社会風潮の相違、そしてイーストウッド自身の非常にユニークな家族観・人生観・・・

こうした様々なバイアスを補正しながら見なきゃいけないので、まぁしんどかった。多分、イーストウッドが言いたかったことの半分も私には伝わっていないと思う。それくらい、本作は見づらい映画だった。

常日頃は過剰なポリコレ風潮に異議を唱えている私ですら分からなかったのだから、意識高い系の方々が本作を見ると倒れてしまうんじゃなかろうか。それほどの破壊力が本作にはある。

と、ここまで長い長い前置きをしてしまったけど、言いたいのは「私にはちょっと理解できない映画だった」ということ。私はよくわかっていないという前提で、以下の感想を読んでいただきたい。

まずブロンコ・ビリーという主人公にはまったく感情移入できなかった。

「半年も無給はさすがにしんどい」と訴える仲間たちを雨の中整列させて、「お前らは金の亡者か!」と恫喝するブロンコさん。この時点で私の共感の度合いは地の底にまで落ちた。

ブロンコさんの言い分を要約すると↓の感じ。

  • こうして共同生活してるんだからお前らに金なんて要らんだろ
  • 子供たちの笑顔を見たいという崇高な目的のために働いてるんだから文句なんて言うな
  • 俺が金を貯めていつか本物の牧場を買う。それがお前らの夢でもあるだろ

前半は新卒を汚い社員寮に押し込めたうえで提示した給料を支払わなかったい〇ば食品と同じ論理だし、後半はやりがい搾取以外の何物でもない。

1980年当時の観客がこのやりとりをどう受け取ったのかは分からないが、2020年代に見るとかなり厳しいことを言っている。

その後もブロンコさんのパワハラ・セクハラが炸裂しまくり。

ほぼ初対面のアントワネットのケツを叩く、関係性がない時点でキスを迫ろうとするなど、ブロンコさんやりたい放題なのである。

曰く、ブロンコさんはかつて結婚していたのだが、自分の親友と浮気をしてしまった奥さんを銃で撃ったとのこと。

「その場合、浮気相手の方を撃つべきでは?」と当然の疑問を投げかけるアントワネットに対して、「親友だったからな」と答えるブロンコさん。回答になっていない。

兎にも角にも、浮気をされたとは言え女性を銃で撃つという感覚はちょっと理解できない。

私にとってはやべぇ人だなという感じなのだが、この話を聞かされたアントワネットは逃げていかない。まかり間違えれば自分も銃で撃たれるかもしれない立場にあるのに、随分と悠長な人である。

そういえばアントワネット側のドラマもよくわからん。

アントワネットはNYの社長令嬢で、30歳までに結婚すればという謎の制約条件付きで父の莫大な遺産を相続することになる。

この制約条件の時点でいろいろ凄いとは思うが、作品内でこの条件はアッサリとスルーされるので、1980年時点では大した話ではなかったのだろう。

で、30歳のタイムリミットが迫る彼女に接近してきたのが胡散臭い詐欺師で、アントワネット的にも金目当てであることが見え見えだったのだけれども、それでもこいつと結婚することにする。

この詐欺師、せめてイケメンであってほしいところだが、むさっ苦しい中年男性でしかないので、本当に「なぜわざわざこいつと?」という疑問しか湧いてこない。

詐欺師を演じるのはイーストウッド作品の常連俳優ジェフリー・ルイスで、90年代に人気を博した女優ジュリエット・ルイスの父親である。

アントワネットは無一文で西部のド田舎に置き去りにされたうえ、遺産を狙う母親の策略で死亡したことにされたので、寝食を保証してくれる唯一の存在だったブロンコ・ビリー一座に参加するというのが彼女側のドラマなのだけれども、「私は生きてますよ」と警察に名乗り出ればよかったんじゃないかという気がしてならない。

このあたりのいい加減さも、作品への理解を著しく妨げている。

で、当初は息の合わないブロンコとアントワネットだが、様々な苦難を共にする中でベストパートナーになっていくというラブコメとしては王道のプロットが置かれているのだけれど、西部劇のバタ臭さがラブコメの背景としてはあまり合っていないように感じる。

そして何より、不器用で怒りっぽく、すぐに説教を始めるブロンコさんが女性にモテるタイプには見えないのである。普通に異性から嫌われるタイプだと思うけど、1980年の社会では違ったのだろうか。

そして、子供のいたずらでテントが全焼したブロンコ一座の金策が後半の山場になるのだけれど、もともと金持ちのアントワネットが動けばすぐに解決できたのではと思ったりもしたりで、最後までお話に乗り切れない自分がいた。

・・・と、いろいろツライ映画ではあったが、そんな中でも良かった点もあるにはある。

「なろうとすればなりたいものになれる」というメッセージ性は私の心にも響いた。

現在では西部のカウボーイにしか見えないブロンコさんだが、出身はニュージャージーで、もとは靴のセールスマンをしていた。

そんなブロンコが、世間の負け犬だった現在の仲間たちを集め、小さいながらもみんなで夢を叶えたのだ。

社長令嬢という圧倒的に有利な立場に甘んじる中で「なりたい自分」なんてものを考えてもこなかったアントワネットも、ブロンコさんと行動を共にする中で自分を解放していく。

王道ではあるけど、このドラマは良かったと思う。

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