【凡作】ドミニオン_内面描写に特化したエクソシスト前日譚(ネタバレなし・感想・解説)

サスペンス・ホラー
サスペンス・ホラー

(2005年 アメリカ)
ホラーの名作『エクソシスト』(1973年)の前日譚だけど、人間ドラマの方が面白すぎて相対的に悪魔の登場場面がつまらなくなっている。悪魔さえ出さなければ面白かったんだけど、それをやるともはや『エクソシスト』ではなくなるし。

作品解説

『エクソシスト ビギニング』の双子の兄

本作は『エクソシスト』(1973年)の前日譚を出発点とした企画だった。

ポール・シュレイダー監督は丸々一本分の撮影を終えていたのだが、ホラー映画なのに怖くない作風が災いしてスタジオ判断でお蔵入り作品となり、代わりに製作されたのがレニー・ハーリン監督の『エクソシスト ビギニング』(2004年)だった。

その辺りの顛末は『ビギニング』の記事をご覧いただきたい。

2004年8月に全米公開されるや『ビギニング』は興行面でも批評面でも苦境に立たされ、『エクソシスト』の原作者ウィリアム・ピーター・ブラッディと一緒に『ビギニング』を鑑賞した本作の監督ポール・シュレイダーは、一度はボツにされた自分の作品が復活するかもしれないと感じた。

その予想通り、製作会社のモーガン・クリークはシュレイダーに再アプローチをかけてきて、中断されていたポストプロダクションの続きを行って映画を完成させてほしいと言ってきた。

シュレイダーはこれを引き受けたが、与えられた予算は35,000ドルと僅かなものだったことからVFXや音楽を満足に仕上げることができず、『ビギニング』からのスコアの流用などで何とか凌いだ。

本作は2005年5月に全米で限定公開された。批評家受けは芳しいものではなかったが、それでも『ビギニング』よりは好意的に受け入れられた。

感想

『ビギニング』とは別ベクトルの作品

本作は長く日本公開されてこなかったのだが、Netflixでの配信開始でようやく鑑賞することができた。私は同日に『ビギニング』とセットで鑑賞した。

…というお話は『ビギニング』の記事をご覧になっていただくとして、本作単体での印象はというと、話に筋は通っている、言いたいことも分かるが、娯楽作としての盛り上がりのなさは如何ともし難いというものだった。

完全に信仰を捨てていた『ビギニング』とは異なり、本作のメリンは一応神父のままではあるが、いったんお休み中というステータスにある。

なぜそんなことになったのかというと、第二次大戦中にナチスから「見せしめのために10人ほど処刑したいから神父が人選しろ。やんなきゃ住民皆殺し」という無茶な要求をされて、心に深い傷を負ってしまったから。

どっちみち人が殺されるのであれば、住民皆殺しよりも選抜した10名の処刑に留めてしまう方がいいわけで、メリンは断腸の思いで10名を突き出すのだが、名指しされた者からすると溜ったものじゃない。

「神父様、マジか」という目を向けられる中で、逆シンドラーのリスト状態のメリンは人一人が抱えきれないほどのストレスを受けて、メンタルが壊れてしまったのである。

しかも当時のメリンは神に祈っていたのに、何らの救済も得られなかった。

こんなことを経験してしまえば、「信仰って何なんでしょうね」となってしまうのも無理はない。

『エクソシスト』(1973年)では貧乏で母親にまともな医療すら受けさせられないカラス神父がこの状態にあったが、本作ではメリンが悩みの時期にあるというわけだ。

そんなメリンだが、宗教家であると同時に考古学にも精通していることから、アフリカで発見されたビザンツ帝国時代の教会の発掘隊に参加することに。

そこに同行するのがイエズス会から派遣された若き修道士フランシス(ガブリエル・マン)で、フランシスは遺跡発掘よりも現地での布教活動の方に重きを置いている。

で、フランシスは聖書に対する圧倒的な信頼と、底抜けの善意を持って現地対応をするんだけど、一から十までうまくいかない。

それどころか例の教会の発掘作業が進むにつれて不穏なことが頻発するようになり、現地の空気は悪くなる一方。

フランシスもまた悪化する情勢と、それに対抗しえない非力さの中で、信仰心を問われることとなる。

何でもかんでも悪魔のせいでは面白くない

ここで興味深いのが、現地情勢が悪化していくプロセスだ。

ある程度の発掘が進み、価値のある骨とう品が多く眠っていることが分かってくると、盗掘を恐れたフランシスは英国軍を呼び寄せて遺跡の警護に当たらせる。

しかし英国軍の兵士2名が「ちょっとぐらい盗んでもバレないだろ」というわけで遺跡に入ってしまい、謎の死を遂げる。

兵士を殺したのは現地人だと決めつける英国軍少佐と、あいつらは盗みに入った悪い奴らだと主張する現地人達。この諍いをきっかけに、見せしめの処刑をする少佐、キリスト教学校の生徒を襲う現地人と、両者の争いはどんどんエスカレートしていく。

疑心暗鬼が拡大し、やがて大規模な衝突にまで発展していく様にはハラハラさせられたし、人間社会における悲しき対立を端的に表現した一幕ともなっている。

惜しむらくは、これら一連の流れをすべて悪魔のし向けたことにしてしまったことである。

人間同士の諍いでも十分に通用する内容だったのに、要所要所で悪魔が当事者たちを操っていたと言われると、逆に冷めてしまう。

「人間どもが勝手に自滅しただけだろ」と言わせてしまった方が良かった。まぁそれをやってしまうとホラーではなくなるのが難しいところだが。

恐らくこれが本シリーズの抱えるジレンマで、悪魔を題材にしつつも、起こったことを悪魔のせいにすればするほど話からは深みが失われていく。

第一作はドキュメンタリー出身のウィリアム・フリードキン監督が醸し出す圧倒的なリアリティと恐怖演出で乗り切っていたが、よくよく考えてみればあの悪魔が少女に憑りついて何がしたかったのかはよく分からなかった。

恐らくあれがギリギリのラインであり、ヘタに説明しようとするとおかしなことになるのだろう。

何とも難しい題材だが、その弱点がドバっと表れたのが本作なのだろう。人間ドラマが充実すればするほど「悪魔のことはもういいから」って状態になってしまい、最後までドラマとホラーが融合することはなかった。

クライマックスであるはずの悪霊払いなんて恐ろしく退屈だったし。

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