【凡作】キャット・ピープル_ナタキンの魅力のみ(ネタバレあり・感想・解説)

サスペンス・ホラー
サスペンス・ホラー

(1982年 アメリカ)
古典のリメイクだが雰囲気作りに全力を投じたのか、ショックシーンは少ないし、ドラマは盛り上がらない凡作だった。主演のナタキンは素晴らしかったが。

作品解説

往年のホラーのリメイク

ホラー映画の古典『キャット・ピープル』(1942年)のリメイク。

どういうわけだか知らないが、80年代前半にはユニバーサルが古典のリメイクに精を出していて、『遊星からの物体X』(1982年)や『スカーフェイス』(1983年)などが作られたが、その流れの中にある一作である。

当初、監督に選ばれたのはフランス人のロジェ・ヴァディムだったが、製作途中で降板。

その後、監督に選ばれたのは『タクシードライバー』(1976年)の脚本家であり、映画監督としては『アメリカン・ジゴロ』(1980年)をヒットさせたポール・シュレイダーだった。

ただし脚本はシュレイダーが執筆したものではなく、『死体と遊ぶな子供たち』(1972年)のアラン・オームズビーによるものである。

またプロデューサーとして後のヒットメイカー ジェリー・ブラッカイマーも参加している。シュレイダーと『アメリカン・ジゴロ』で組んだご縁だろうか。

ナタキンはリアル魔性の女

主演には猫顔のナスターシャ・キンスキー(以下、ナタキン)が選ばれた。ドイツ出身の女優だが、その名からも分かる通りスラブ系の血も入っており、往年のホラーにふさわしい雰囲気を持っていた。

シュレイダーが友人のフランシス・フォード・コッポラ監督の『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982年)の撮影現場を訪れた際に、同作に出演していたナタキンに一目惚れをしての起用らしい。

ちなみにシュレイダーの代表作『タクシードライバー』(1976年)のジョディ・フォスターとナタキンは親友関係にあるそうな。

映画の撮影中、シュレイダーとナタキンは肉体関係にあり、シュレイダーは15歳年下の彼女に入れ込んだ。

撮影終了後、シュレイダーはナタキンに本気でプロポーズしようとしたが、彼女は約束の場所に現れず、以降は連絡もとれなくなる。

3か月後、シュレイダーはようやくパリで彼女を捕まえたが、そこで言われたのは「私は自分の映画の監督とはいつも寝るんだけど、あなたとはなかなかその気になれなかったわ」という辛い言葉だった。

年下の魅力的な女性が勝手に自分を好きになってくれるなんて幻想は持つなという、多くの中年男性が肝に銘じておくべきエピソードではなかろうか。

感想

意外と大したことなかったトラウマ映画

本作との出会いは恐らく小学校入学前のことで、ゴールデン洋画劇場のCMでのことだったと思う。

私の幼少期にはこの手のホラー映画が地上波でバンバン放送されていた。しかも番組予告の段階からショックシーンを流すなどやりたい放題で、本作が放映される日にも真昼間から黒豹に腕を嚙み千切られる場面がCMで流されていた。

幼少期の私にとってはこの場面が心底恐ろしくて、本編を見るまでもなく本作はトラウマ映画の一本となった。そして深層心理のレベルで忌避する回路が形成されたためか、以降の人生でも本作を見ることは一度もなかった。

なんだけど、ユニバーサルから地上波版2種+ソフト版1種の日本語吹き替えがすべて収録されて2000円ポッキリというなんともマイト盛りなBlu-rayが発売され、地上波吹替ファンの私はついつい衝動買い。

かくして本編初鑑賞となったのだが(音声はもちろんゴールデン洋画劇場版)、腕を噛み千切られる例の場面は幼少期に記憶していた通りだった。強烈な場面に出会うと人間の記憶はシャープなものとなるらしい。

和んだ空気の中で突如起こる流血沙汰というタイミングの素晴らしさや、骨や血管が丁寧に作られた傷口の生々しさ、リアルな血の色など、あの場面はホラー映画のワンシーンとしてほぼ完ぺきで、たしかにこれは幼児がショックを受けて当然だなと思った。

ただし突出していたのはこの場面だけであり、全体的には薄い内容を勿体ぶって引き延ばしたような印象を受けた。

ショックシーンは少ないし、ドラマは盛り上がらない。

『タクシードライバー』(1976年)『白い刻印』(1997年)など人間心理の闇を描くことに長けたポール・シュレイダーの手腕があればもっと面白くできたはずなんだけど、やはり他人の脚本を使ってしまったのがマズかったか。

猫一族の苦悩が伝わってこない

  • 性交すると豹に変身してしまう
  • 性交相手を殺さなければ人間に戻れない

これが猫一族の呪いであり、好きな人ができてしまった主人公アリーナ(ナタキン)が、愛する人と相思相愛なのに結ばれることができず悶々とするというのがざっくりとしたあらすじ。

相手役は後に『ホームアローン』(1990年)で優しい父親役を演じるジョン・ハードだが、名前が似ているために混同されて『エイリアン』(1979年)のジョン・ハート出演との誤報が出回った。

また彼が演じるのは原作ではオリバー・リードというキャラクターだったが、リアルで同名の俳優がいたことから(『グラディエーター』のプロキシモ役のあの方)、イェーツという姓に改称された。

そんな名前ネタ2連発はどうでもいいとして、若い女性の悲恋が本筋なのだろうと思うが、これがどうにもうまく表現できていない。

愛する人と結ばれるという幸せの絶頂の直後に、相手を殺すという悲劇がセットになっているというもどかしい状況が、さほどの切実さを持っていないのである。

どうにも構成のバランスが悪くて、アリーナが自分の特異体質を認識するまでに時間をかけすぎている。古典のリメイクである以上、ほとんどの観客は基本設定を踏まえて見ているのだし、共通認識として存在する部分で勿体ぶっても時間の無駄だと思う。

そして結末の分かりきったミステリーを解明する手続きで時間と観客の集中力を無駄使いしたために、愛する人との関係をどう処理するのかという肝心の本筋が弱くなっている。

また鑑賞する側の時代性の変化も本作には悪影響を与えている。

本作が製作された1980年代初頭と比較すると、21世紀の社会ははるかに禁欲的だ。

生まれてこの方恋人がいませんという人は多いし、好ましくないとされるシチュエーションでの性行為に対する社会的ペナルティも過酷なものとなっている。

2018年にはインテル社CEOが、2019年にはマクドナルド社CEOが社内恋愛をしたことを理由に解雇された。両者とも不倫をしていたわけでもなければ、優越的な立場を利用したセクハラでもなかった。

アメリカでは管理職の社内恋愛を禁止する社内規定を定めている企業は多いし、発覚すれば部長クラスでも一発解雇がありうるほど厳しい。

わが国でも部下との関わり合いには極めて慎重になるようにとの風潮が根付いている。社内恋愛をした場合、結婚して一定の責任を果たしたとしても、人事面でのマイナス査定は覚悟しなければならない。

自由恋愛の一種と見られる関係であっても、不適切なシチュエーションでは厳しい社会的ペナルティを加えられる。いくら相思相愛であっても成就してはならない関係というものが現代社会ではそこかしこに存在しており、そんな中ではキャットピープルの呪いも相対的に薄まっていく。

豹に変身して相手も自分も社会も壊してしまうくらいなら、性欲を我慢しとけよという見方にどうしてもなってしまう。恋愛なんてそこまでして成就させなければならないものでもないだろというドライな時代なのである。

ナタキンは素晴らしすぎた

そんなわけで映画としてはグダグダだったが、主演のナタキンは素晴らしすぎた。

私はその世代ではないものの、ある年代の映画ファンにとってナタキンは永遠のミューズとしていまだに崇められ続けている。確かにそれだけの魅力はあった。

突出して美人な顔立ちの上に、この世のものとは思えないレベルの美人オーラが凄まじい。

古い映画の場合、ファッションなどの理由で女優さんの美しさが現代の観客に伝わりづらくなるんだけど、ナタキンはそれを超越したレベルにあると思う。

またポール・シュレイダーが彼女に惚れ込んでいただけあって、いかにナタキンを魅力的に見せるかに現場の全リソースを投じていたようにも見受ける。

胸の形が丸わかりなニットや、水中長靴の隙間から見える太ももなど、どうすればナタキンがエロく見えるかしか話し合っていなかったんじゃないかと思うほどだ。

そうしたクリエイティビティもあって眼福ではあったけど、禁欲をテーマにした作品において、あの手この手でエロを繰り出してくるという映像表現が主題に貢献していたかと言われると謎。

個人的に大好きな『スペースバンパイア』(1985年)でも感じたのだけど、主演女優の性的魅力を引き出しすぎたホラー映画はバランスが崩れがちになる。

50年代のゴシックホラーのような隠喩的表現にとどめるのが適切なバランス感覚なのだろう。実際、21世紀のホラー映画では性的描写がめっきり減っているし。

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