(1986年 アメリカ)
昔見てつまらなかったのだが、今見てもつまらなかった。ハードな探偵もののあらすじにコメディを付け加えた作風がどっちつかずになっており、スリリングでもなければ笑えもしないという、何とも無残な出来栄えとなっている。
作品解説
争奪戦が繰り広げられた名脚本
本作のオリジナル脚本を書いたのは、スクリプトドクターとして活動していたデニス・フェルドマン(『スピーシーズ/種の起源』、『ヴァイラス』)。
当初のタイトルは『チベットの薔薇』で、レイモンド・チャンドラーのようなハードボイルドに超自然的な要素を加えたものだった。
そのオリジナリティからハリウッドでの注目を受け、各社は激しい入札競争を繰り広げた。最終的に購入したのはパラマウントで、落札額は33万ドルだった。
エディ・マーフィ主演でコメディに変更
パラマウントはメル・ギブソンを主演に迎え、本格的なハードボイルドにする予定だったが、ギブソンからは断られた。
その後、どういうわけだかエディ・マーフィ主演に決まり、主演に合わせて脚本はコメディに書き換えられた。
共演のチャールズ・ダンスによると、最初の脚本は素晴らしかったのだが、マーフィに合わせていくうちにチベットのビバリーヒルズ・コップになったとのこと。
マーフィは監督にジョージ・ミラー(『マッドマックス』)を希望したのだが、マーフィが打合せに4時間も遅刻してきたことから、ミラーには断られた。
次にジョン・カーペンターが監督候補に挙がったのだが、カーペンターは盟友カート・ラッセルと共にフォックスで『ゴースト・ハンターズ』(1986年)を撮ることにした。
最終的に監督に選ばれたのは『がんばれ!ベアーズ』(1976年)のマイケル・リッチーだったが、脚本家のフェルドマンはその作風に批判的だった。
全米年間興行成績8位の大ヒット
本作は1986年12月12日に全米公開。
批評家からのレビューは奮わなかったものの、ビバリーヒルズ・コップ1と2に挟まれたエディ・マーフィの全盛期だったこともあり、5週連続全米1位を記録。
全米トータルグロスは7981万ドルで、1986年に公開された作品では年間8位の大ヒットとなった。
感想
昔も今も面白くない
昔はゴールデン洋画劇場とか日曜洋画劇場でまぁまぁの頻度で放送されていた映画。
日曜洋画劇場で放送された際、解説の淀川さんが「えでぇ・まーひー」と言っていたのが妙にツボで、月曜日はえでぇ・まーひーを連呼した記憶がある。そんな映画。ってどんな映画だ。
当時から見せ場も笑いもパッとしないイマイチの映画だと思っていて、大人になってから再見する気にもならなかったのだが、我らが午後のロードショーで放送してくれたので、恐らく30年ぶりの鑑賞となった。
大人になってこそ面白さが分かる映画、再見すると案外イケる映画というものもあるが、本作は違ったね。子供心に感じた通りで、パッとしないイマイチの映画だった。
笑いとハードボイルドの喰い合わせの悪さ
1000年に一度生まれるというゴールデンチャイルドが悪者にさらわれ、LAの私立探偵ジャレル(エディ・マーフィ)がその捜索と救助を依頼されるというのが、ざっくりとしたあらすじ。
ゴールデンチャイルドはチベット仏教に関連する存在らしく、ジャレルに捜索依頼をしに来るキー・ナン(シャーロット・ルイス)もチベット人女性である。
キー・ナン曰く、400年前の賢者が書いた予言書には聖なるものとは程遠い俗物がチャイルドを救うと記載されており、ジャレルこそがその俗物であるとのこと。ただし世の中に俗物なんて掃いて捨てるほどいるわけで、なぜジャレルこそがそれに該当するのかという具体的な根拠は示されない。
というか、400年前から今回の誘拐が予言されており、チベット仏教的にその信頼性は高いと判断されていたのであれば、ゴールデンチャイルドの警備をもっと手厚くしとけよと思うわけだが。
そんなグダグダな論理なのでジャレルもその主張には真剣に取り合わず、キー・ナンをヤク中扱いして追い返してしまう。
なのだが、ジャレルが従前から追いかけていた地元の少女失踪事件とゴールデンチャイルド誘拐事件が結びついたものだから、結局は本件に関わることに。
無関係だと思われた二つの事件が結びつくというのは探偵ものの典型的なプロットであり、元はレイモンド・チャンドラー風だったことの名残は完成作品にもちゃんと残っている。
また地元の少女失踪事件は人身売買組織によって少女が売られていたという胸糞な内容で、いけにえにされた少女はすでに殺された後だったなど、コメディ映画らしからぬハードな展開も残っている。
なのだが、私立探偵ジャレルはこの案件にショックを受けたり怒ったりしない。
エディ・マーフィをあくまでコミカルな主人公に留めておくための措置なのだろうが、熱心に取り組んできた事件に対して感情的に反応しない主人公というのは、やはり不自然に映る。
また別の場面では、どうしてもジャレルをチベットに連れて行かねばならないキー・ナンが、彼と一夜を共にする代わりにチベット行きを承諾させるというくだりがある。
キー・ナンはチベット仏教の関係者なので当然のことながら高い貞操観念を持っており、好きでもないジャレルに抱かれるなど本来の彼女にはあってはならぬことなのだが、任務優先で彼女は我が身を提供するのである。
これもなかなかハードボイルドな展開なのだが、やはり演出はエディ・マーフィの明るい個性との間での適切な温度感をはかりかねて、重要な場面をスルーしている。
全体的にコメディとハードボイルドの折衷に失敗しているという印象である。
そして、これをうまくこなしていた『リーサル・ウェポン』シリーズは、やはりよく出来た映画だったことをあらためて認識した。
本作を断る一方で『リーサル・ウェポン』には主演したメル・ギブソンは、作品に対する素晴らしい審美眼を持っているのだろう。
センスのないファンタジー描写
ゴールデンチャイルドをさらったのはサード(チャールズ・ダンス)という男で、身なりは普通の人間なのだが、テレポーテーションなどを使うので人外であることが分かる。
終盤で表した本性は頭部に角、背中に羽の生えた悪魔であり、仏教の聖人を西洋の悪魔がさらうという、興味深い構図が置かれていたことが判明する。
なのだが、これまた演出の下手さ加減が災いして、東西折衷のユニークなファンタジーの醍醐味を味わわせてくれない。
これには困ったものである。
悪魔が暴れる場面もストップモーション丸出しで、80年代の映画とは思えないほどの粗いVFXとなっている。
娯楽作に長けた監督ならば、こんな出来の悪い見せ場を絶対に承諾しないはずなのだが、手のかかるファンタジーをこなした経験のないマイケル・リッチーは、この無残な悪魔を良しとしているわけである。
では全体の見せ場の質が低いのかと言われるとそうではなく、中盤で空き缶がダンスをする場面などは、異様な完成度を誇っている。一体どこに力を入れてるんだか。
これまた本作のガッカリな点であった。